ほめられたことをもう一度できない

アイドルとアイドルオタクについて

【毎日読書感想文】ナナメの夕暮れ 一人で平気なんですけど

 

 

 

6/8 ナナメの夕暮れ 一人で平気なんですけど

 

 

 

 


「いつまで自分と話しているつもりだろうか。」


く、くるしい

 


私も1人行動が苦でない。

ひとりでごはんもカラオケも美術館もレイトショーも行くし、飛行機のって旅行もできる。 本気でさみしくない。


そりゃ誰かと出かけるのも楽しいけど。

 

初めてひとり〇〇をしたのはいつだろう。


私は中学生のときひとりで帰るのが好きだった。

 

中学校から家までは2つのルートがあって、


1つは近道だけど坂の傾斜がきつい道、


もう1つは坂はゆるやかだけど墓地のある寺の横を通るためなんだ うす暗くて気味悪がられている道だった。 遠回りだし。

 


みんなは部活が終わっても昇降口のあたりにうろうろして誰と帰ろうか思案してるようだったけど、私は声をかけられる前にとさっさと帰った。

 


そしてわざと遠回りで帰る。そんで1人で会話するのだ。

 


自分と話している内に笑ったり泣いたりしてしまうこともある。

 


中学生の私はちょうど「傷つくことですべて許されるはず」という謎の思想を持っていたので、会話で徹底的に自分を苛め抜く、ということをよくやっていた。

 


今思うと修行だな。

 


そんな自分との会話をくりひろげていた私に変化が訪れた。

 


最近会話してくれるもうひとりの自分が現れない。

 


悪役はもう嫌だと逃げ出してしまったんだろうか。

 


じゃあなぜ今さみしくないんだろう。 もう自分とは会話できないのに。

 


修行を終えたからか?

 


いや、会話はしている。リアルタイムではないけど、たまに書く日記のようなもの はその感覚に近い。

 


たまにはこっちに来て話そうよ。

ひさしぶりに美味しいものでも食べながらさ。

【毎日読書感想文】ナナメの夕暮れ ラウンドデビュー

 

 

 

6/7 ナナメのタ暮れ「ラウンドデビュー」

 


わかる人にはわかる、あの「反省会」について

 


なんだ、若林さんって結局器用な人なんじゃないかと思った。

なんだってなんだよって感じだけど。

 

私は小さい頃から複数の要素を同時に意識しながら体を動かすことができない。


これを運動音痴といいます。


何を隠そう、私は自分の要領の悪さのすべてをスポーツ経験がないからということに集約させてきた。


コロンブスの卵のように、どちらが先か分からない。要領が悪いからサッカーでボールをどっちに蹴っていいのか分からないのか、スポーツ経験がないから たこパしたとき皿を持ってうろうろししまうのか。

 


帰り道、あぁ動けばよかった。なぜあんなことしてしまったんだろうとうなだれながら歩くのは小学生の頃からずっと変わってないな。

スポーツ経験者への嫉妬も。

 


思うのですが、あの「反省会」が活かされたこと、今まで一度もない。

 

「今度こう言われたらこう返そう」「その状況になったらああやって動こう」と思って本当にそうなった試しがない。

 


「人生何回目?」という言葉があるけど、きっと私は何回人生を繰り返してもBBQで上手く 立ち回ることはできないんだろうな。

来世でも 「反省会」は続くんだ。

 

 


それでも若林さんが言うように、「試す」ことは楽しい。私もそう思う。

 


「ジャーナリストというのはほかの人たちが活用できるように探索をしてやる殉教者のようなもの」と言った人がいるが、全然あり。喜んで殉教者になりたい。

 


あれ?反省を上手く活かせないくせに試行錯誤が好きなんておかしい気がする。


となると、あの「反省会」は反省ではないのではないか。

 


じゃあ、何?

 


妄想かも。妄想癖かも。妄想と反省はちがう。 あぁこれだな。

 


要領が悪いひとは、要領がいい人よりも試す回数が多いのかもしれない。

 


多くの要素が組み合わさった正解にたどりつくまで時間がかかるから。

 


でもまぁ試す回数が多いってことは失敗の数も多いけど、その分上手くいったとき、ものすごく嬉しいからいっか。

 


まとまらなかったね。

芸人をアイドルにするまなざし

ついにまとめまで来ました。ありがとうございます。参考文献もつけましたのでよかったら読んでみてください。

 

5. おわりに


この論文では、アイドルを応援する女性が日頃どのような生きづらさを抱えているのか、またアイドルを応援することでその生きづらさがどのように解消していくのかを見てきた。

2章ではアイドルたちに自らが成し難い理想的な関係を投影して消費している側面を、3章では自身に不用意に向けられるまなざしから解放させてくれる側面、また物語などを提供することで、自分たちがまなざすことを許してくれる側面について説明した。そして4章では、何者かで居なければいけないという不安を持つ女性に、アイデンティティの形成する場を提供してくれるという側面を説明した。

このように考えると、アイドルを自称している人以外にも、〈アイドル的なもの〉は存在するといえるのではないだろうか。なぜならば、この論文におけるアイドルの定義とは、まなざす側が相手をどう捉えているか、それに対し相手がどう受け入れているかの問題だからである。

今回深く踏み込むことはできなかったが、アーティストや俳優、最近ではyoutuberやお笑い芸人などにも〈アイドル的なもの〉を感じることがある。特に「第七世代」と呼ばれているようなお笑い芸人たちのアイドル的な人気は顕著だ。その人気に対する態度も興味深く、自分はお笑いだけで評価されるべきなのではないかと悩む者もいれば、自分たちはやりたいことをやっているだけで、どう捉えられようが構わない、というまさに〈アイドル的な〉者もいる。

このように様々な人物に〈アイドル的なもの〉を投影する女性のパワーは良くも悪くも力強いものである。まなざされる側にその準備と受け入れ態勢がない場合もあり、そのときまなざしは強い暴力性を持つことは3章の通りである。それゆえ批判されることも少なくはないが、そのパワーには理由があるはずだ。

たとえばもしアイドルが存在しなければ、現代の女性たちはどうなっているだろうか。「優しい関係」に疲弊し、周りとの関係を遮断して孤立してしまうかもしれない。あるいは応答責任の重さに逃げ出したくなり、最悪の場合失踪や自殺を考えるかもしれない。「まなざしの地獄」に囚われ、社会から離脱することでまなざしから逃れようとするかもしれない。アイデンティティについて自問自答し、ひとときも穏やかでいられないかもしれない。

社会全体にとってアイドルを応援するということは、逸脱する危険性のある弱者を守るセーフティネットであり得るとも言える。アイドルを応援する行為とは、彼女たちにとって、彼女たち自身がもがいた上で選び取った、この生きづらい社会を生き抜くための生存戦略なのではないだろうか。

 

参考文献

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ここまで読んでくださり、本当に本当にありがとうございました。

ご意見ご感想お待ちしております。

オタク・アイデンティティ コミュニティの地獄~新規v.s古株~

今回はオタクとアイデンティティについてです。永遠の課題、新規v.s古株についても触れています。前回同様だるい~ってところは読み飛ばしてもらって構いません。それではよろしくお願いします!

4. 帰属するコミュニティとの関係性における生きづらさ

 

4-1.  何者かでいなければならない苦しみ


4章のタイトルである〈帰属するコミュニティとの関係性における生きづらさ〉には2つの要素がある。

1つ目は自己を証明・呈示するためにコミュニティに帰属しなければという強迫観念である。2つ目はコミュニティに入った後の身の置き方である。まずは1つ目から説明していく。

望むとおりに理解されることもとても難しいが、自分を提示していくという行為もまた困難がある。社会学者の千田有紀は女性のアイデンティティについて、「女は女であることだけでは認められず、『どのような女か』ということが問われる」(千田 2005: 279)と考察している。そして現代社会は「どのような女か」だけでなく、「どのような人間であるか」も強く問われている。

社会学者のギデンズは、「現代社会において自己は再帰的プロジェクトとなった」とし、「近代社会では性別や家系、身分といった外的な基準が効力をもたなくなる。このために私たちはたえず『何者なのか』と問われるようになり、」「私たちは、たえず自分の生活史を振り返り、それを再構成し、たえまなく自己物語を物語り続けなければならないのである」(長谷川・浜・藤村・町村 2019: 70)と、述べた。

つまり現代人は、自分と向き合いながら、常に「何者であるか」ということを呈示し続けることが求められているということだ。

社会学者のジョージ・ハーバート・ミードは自己について、「その発生においても、その作動においても、他者のコミュニケーションを前提としている」(長谷川・浜・藤村・町村 2019: 55)とし、浅野智彦は「自己は、自己が自分自身について語る物語をとおして産み出され」、「自己物語もまた相互行為のなかで他者に向って呈示され、他者と共同で維持されなければならないのである」(長谷川・浜・藤村・町村 2019: 69)と述べる。

これらの考え方から、自己を見つめることも、(「自己物語」を編んで)自己呈示をすることも、他者との関係性の中で可能になるといえる。

百万円と苦虫女』という映画には、「自分探しですか?-逆です。自分から逃げてるんです。」という台詞がある。百万円が貯まると別の街に移動することで、他者との深い関係構築を避けてきた主人公は、「自分から逃げている」と語る。まさに他者との関係が自身のアイデンティティを形成していることを体現しており、〈何者かでなくてはならない〉という自己の再帰的プロジェクトを抱える現代人の辛さを描いた作品だといえるだろう。

 

4-2. アイドルが可能にする<理想のアイデンティティ形成>


3章で説明した〈アイドルの物語〉は、女性が安心してまなざすことのできる場を提供するという役割だけでなく、アイデンティティを形成する場を提供するという役割も持つ。これは、望まない役割期待と、義務化した自己呈示の苦しみ、「何者かでいなければならない」苦しみを解消する役割を担っているといえる。

先ほどアイドルの応援を辞める2つの傾向があると述べたが、1つ目の傾向とは、<自分の望む応援をできなくなったから、応援を辞める>というものである。

アイドルを応援している人々の中には「担降りブログ」というものを書く文化がある。「担降りブログ」とは、担当(特に力を入れて応援している)アイドルの応援を辞める際に、自分がどのように応援してきたか、なぜ辞めることを決意したのかなどを綴った文章である。筆者がこのような「担降りブログ」をいくつか観察する中で、この傾向を認めることができた。

つまり、アイドルを応援している人々には、それぞれ自分の理想の応援スタンスというものがある。そしてその応援を通し、理想のアイデンティティを獲得しているのではないか。

まずはホストクラブに通う女性についての社会学者の志田雅美の分析を参照する。『1 億 5 千万の恋 ホストに恋した 4 年の日々』を分析した結果、ホストに「ハマッた」なおの独白には「①現状への不満・既存の価値観への反抗という要素②アイデンティティへの不安という要素③理想の女性性の追求という要素がある」(志田 2017: 257)とした。③の観点では、現代女性は「男性中心主義社会における女である自分の性的価値はどれくらいあるのか」(志田 2017: 261)ということが問われていると述べ、「性規範からの『逸脱』と男性中心主義社会からの『逸脱』を犯している場」(志田 2017: 259)であるホストクラブでは、女性が「性的主体」であるために、「自らが求める『女』を追及できる」(志田 2017: 262)としている。

たとえば「なお」は見返りを求めずホストに大金を貢ぎ続けることで「『聖女』としての理想の女性的アイデンティティを実現するために」(志田 2017: 263)ホストを「消費」していると見ることができる。さらに志田は元ホストのインタビューを通して、「ホストクラブという場において、客とホストはアイデンティティを売買している(女性の主体的に求める女性的アイデンティティと、それを叶えるためのホストのアイデンティティの放棄)」(志田 2017: 267)と述べた。

また、「なお」と担当ホストの関係は、「俺が店出してやるからお前はもう仕事やめろよ」というホストの発言によって終了した。「もし、客である『なお』が、ホストである『翼』との愛の成就を求めているならば、自らのために店を出すという『翼』の行動は『責任を取る』という行動の表れであり、二人の"ゴール"で」あるはずなのにも関わらず、「なお」は別れを決意したという。しかし「「聖女らしさ」や「尽くす女」像を自らのアイデンティティとして消費するためにホストクラブに通っていたのであり、翼とのゴールインを目的として金銭を支払っていたのではないと結論づけるならば、」(志田 2017: 263)不思議なことではない。

ホストクラブとアイドルは異なるが、「男が買う側で女が売る側」という性規範から逸脱している点、男性に価値付けられる男性中心主義から逸脱している点は共通しているのではないだろうか。ホストもアイドルも、「どのような女か」を強要しない。相手がなにも期待しないからこそ、自分のなりたい自分でいられるのである。

これは社会学者のスタンリー・コーエンとローリー・テイラーのいう「純粋な離脱」、つまり新たな資源を得て自分のアイデンティティを取り戻すことができる領域へ逃亡することと述べたような、一種の逃避行動であるといえる。(コーエン・テイラー 1976=1984)そのような逃避の場、自身の理想のアイデンティティを許容する場を提供しているのがアイドルなのだ。

アイドルを応援することで得られるアイデンティティは多種多様であるが、筆者が特に見かけることが多いと感じるいくつかのパターンを例として挙げていく。

1つ目は、努力がすべて報われるという自分だ。日常的な世界では、自分の努力がすべて報われるということはほぼないと言っていい。しかしアイドルを応援する中では、お金を使えば使うほど、ライブや握手会に足を運べば運ぶほど、結果が目に見えて表れることが多い。その結果とは、自分がアイドルに名前を覚えてもらうだとか、アイドルの知名度が上がっていくなどさまざまな形がある。先述した『くたばれ地下アイドル』という小説の先の見えない自分の将来を思うよりも、これから伸びしろのあるアイドルへ投資するほうが楽しいという内容からも、そのようなパトロンというアイデンティティを達成することもできるということが分かる。

2つ目は、志田のいう聖母的な自分だ。バウマンは、贈与について「贈与によって、送り手は、道徳的な満足という報酬を得る」とし、「その報酬は、送り手にとらえどころはないが深い喜びをもたらす」と述べる。また、贈与という行為は「私心を捨て、他者のために自分を犠牲にする好意である。交換や利益追求の文脈とはまったく対照的に、どれだけ自分を犠牲にして苦痛を味わうか、結果としてどれだけ損失をこうむるかに比例して道徳的な満足を増す」(バウマン・メイ 2016:176)と分析する。筆者は聖母的な献身の魅力とはここにあるのではないかと考える。

しかし日常的な関係で、自分の満足するまで「贈与」を行うとどうなるだろうか。贈与された相手は当然「互酬性」を意識せざるを得ないだろう。つまりもらった分だけ自分も返さなければという気持ちになるのが自然な流れだ。自分が返せる範囲の贈与ならばいいが、その範囲を超えた場合、かなりの負担を強いられることになる。しかし、贈与される側とする側の気持ちは比例しない。

バウマンは「最も傷つきにくいのは、贈与としての愛である。そこには、相手の世界を受け入れ、その世界に身を置いて、内側から理解しようとする用意があり、しかも、その見返りに同じことをしてもらおうとも思わない。そこでは合意も契約も不要である。しかし双方向的に親密性が求められた途端、交渉や妥協は不可避である」(バウマン・メイ 2016:191)と続ける。心ゆくまで贈与をする、というのは相手の負担を考えるとかなり難しいといえる。

対して相手がアイドルやホストであれば、「どれだけ自分を犠牲にして苦痛を味わ」っても、個人の自由であり、負担を強いることもない。なぜなら彼らはそのようなアイデンティティをも受け入れるからである。これはバウマンとメイの言う「愛の実現は、かくも困難で大きな犠牲をともなうため、愛の代用品が求められても不思議ではない。たとえば、だれかが見返りを要求することなしに、愛の機能を発揮する場合がそれである」(バウマン・メイ 2016:191)という考えに近い。彼らは、「精神分析、カウンセリング、結婚生活相談などが驚くほど成功を収め、人気を博している理由は」愛の代用品に多大な需要があるからだと語る。アイドルには、「自分をさらけ出したり、心の奥底に感情を他人に知らせたり、待ちに待ったアイデンティティの承認を得たりする権利が、一定のサーヴィス料金を支払うだけで満た」(バウマン・メイ 2016:191)すことができる、愛の代用品という側面があるのだ。

3つ目は、相手を志向している自分だ。アイドルを応援している人々が使う言葉に〈担タレ〉という言葉がある。これは担当タレントの略で、応援している人が、応援対象のアイドルやタレントに似てくるという現象のことだ。似てくる、というのは性格や外見などさまざまな要素について言及される。

他にもYoutubeなどの動画サイトには、応援しているアイドル別のファンの服装・行動の〈あるある動画〉が数多く公開されている。このようなことから分かるのは、あるアイドルを志向することが、その人にとって十分アイデンティティになり得るということだ。

社会学だけでなく、心理学の分野などでも用いられている「社会的アイデンティティ」という概念は、所属している社会集団やカテゴリーによって確認する自己認識のことである。つまり自己と所属集団の同一視に近いものだ。特定のアイドルを応援する人々にファンネームが設けられるという現象は、この概念に通じるものがあると考える。元々はファン間で非公式に、自称として呼んでいたものが多かったが、最近では公式にアイドル側から設定されることも少なくない。アイドルを応援している人に話を聴くと、やはりファンネームがついている方が団結力や帰属感が強まり、そのアイドルを応援している自分、という自覚が強くなるそうだ。

しかし、アイデンティティを形成する場だからこそ、その物語内のアイデンティティが揺らいだとき、人々は大きな不安に駆られる。これが2つ目の生きづらさの要素である。

大泉は、「オタク」という言葉に従来のネガティブなイメージが払拭されつつあり、「オタク的な人」が増えてきたことについて、「現在のようにオタクと非オタクの間の敷居が低くなってくると、自分がオタクであるという自覚や自己規定だけでは自我が持たなくなる。それだけでは他者との間の差別化ができにくくなっているから」という現状を分析し、「そこで、蒐集、創作、評論など、オタクとしての活動にさらに拍車がかかっていくことになる」(大泉 2017: 166)と述べる。

たしかにアイドルを応援する人々は、イラストや文章、凝ったSNS投稿、グッズ作り、写真加工、動画作成など、さまざまな方法で「推し」への思いを表現している人が多い。他者との差別化を図るため、自分だけの表現へとベクトルが向いていく現象は大変興味深い。

アイデンティティを呈示していく上で、自分だけの表現を見つけられればよいが、もちろんそう上手くはいかないこともあるだろう。部落差別を研究している笹川俊春は、

境界があいまいになることで、同和地区に居住しているかいないかに関わらず、すべての人々が「部落出身者と見なされる可能性」を持つことになるという逆説的な状況が生じた。それはあくまでも「見なされる可能性」に過ぎないにもかかわらず、差別されたくないという意識に囚われてしまうと、「部落出身ではない自分」というアイデンティティ固執することになる。こうして部落出身者という他者を作り出し、その他者を排除することによって自己のアイデンティティを確定するという差別が生起する(笹川 2009: 1)

と分析している。アイドルを応援してアイデンティティを得ている人々は、それが危ういものとなったとき、他者を排除することによって、なんとしでも奪われまいとする。この心理がいわゆる<古株と新規>のようなオタク内差別、オタク間のヒエラルキーを生むのではないだろうか。

アイドル雑誌『明星』を研究している田島悠来によると、『明星』の読者投稿欄にファンクラブの情報が掲載されるようになったのは70年代で、そのころからファンの間に力関係が発生したそうだ。つまり、「『ファンクラブに参加しているもの=本当のファン=上』『ファンクラブに参加していない者=下』という見方があり、ファン間での一種のヒエラルキーの形成がなされ」(田島 2017: 182)た。そして「本当のファンとはどうあるべきか」という議論が盛り上がっていく。

「本当のファンならば~すべきである」という言説が度々登場し、これも議論の対象となることで、読者側の態度にも注意が払われ、「ファン」であることの解釈がなされていく。テレビ番組収録時の応援法やコンサート先でのマナー・ルールを守ることの大切さも説かれた。特定の意見を絶対視するのではなく、お互いの在り方を見つめあい相対化する姿勢が見受けられたわけだが、これは、ファンの多様な態度がある程度許容されていた、換言すれば、「ファン」が社会化する途上にあったことを示していよう。(田島 2017: 325)

社会学者のノルベルト・エリアスは、文明化の原動力について、文明化されたふるまいによって上級階級である貴族が市民階級との差異化をはかるなど、階層間の差異化のメカニズムが作用していると述べている。そして市民階級がそのふるまいを真似することで広範囲に文明化が進むとも言っている(奥村隆 2003)。

これを田島のいう「ファン」の動きになぞらえて説明すると、アイドルを応援する人々の中に「オタク的な人」が多く見られるようになったことで、周りとの差異化を図るため<本当のオタク>とはなんなのかを追求し、そのふるまいを周囲の人々が真似、さらに差異化を図るために新たなルールが定められ・・・という動きの繰り返しが行われているのだ。

この動きがあまりに白熱した結果、生きづらさから救済してくれるはずのアイドルの応援が、逆に息苦しさを感じさせてしまうこともある。Twitter上では、

私は何らかのファンであると名乗るのがすごい苦手なんだけど、名乗った時点で努力義務が発生するという強迫観念がでかいんだよな~~~ たとえば「えっかめなしくん(ジャニーズ事務所所属のタレントである亀梨和也)のファンなのにかめらじ(亀梨和也のラジオ番組) リアタイ(リアルタイムで視聴)してないんですか?」とか「えっカツン(亀梨が所属するアイドルグループKAT-TUN)のファンなのにタメ旅(KAT-TUNが出演するTV番組)見てないんですか?」とかそういうやつ・・・・・・ (セリ@jisx0 2020)

というような意見がみられ、2020年10月13日時点で6.8万いいねを集めている。実際にアイドルを応援している人々に話を聞いていると、ファンがファンのあり方を規定しすぎてしまうせいで、アイドルの応援がしづらくなるシチュエーションはよくあることだそうだ。

生きづらさから逃避してきた先で新たな生きづらさに直面してしまうのは矛盾を感じる。しかしコミュニティの境目をはっきりさせようとしたり、コミュニティの中に線を引こうとしてしまうのは、はるか昔から繰り返されてきたことであり、未だ国際問題としても解決していない。この新たな生きづらさへの対処法を考えるのはかなり労力と時間が必要になりそうである。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

ご意見、ご感想お待ちしております。

次回はついにまとめです!よかったら読んでください。

 

結局、アイドルとオタクの関係って

今回は卒論の中でも特に力を入れて書いた「まなざし」パートです。前回同様、読むのだるいな~というところは読み飛ばしてもらって構いませんが、前回よりは読みやすいと思われます!

3. 否応なしに置かれる社会との関係性における生きづらさ

 

3-1.  『望むとおりに理解されることの不可能』

 

「仲間であることを確認(承認)しあうゲーム」の生きづらさは、個々人の関係性においてだけでなく、「社会的な承認」についても同じことが言える。教育心理学者の梶田叡一は、社会的承認をこのように説明している。

社会に生きている以上,形は変わっても,社会からの期待に合うよう自分自身をコントロールする,という責務を何とか果たしていかなくてはならない。外から与えられた制服やマニュアルを拒否するとするなら,自分自身で新たに自分なりの服装と行動原則を作り出し,それを自分なりの自己提示の仕方として周囲に認めさせていくしかない。これがしんどいということになると,結局は自己提示の在り方を考えること自体から逃避し,引き籠りになるしか道がないということになる。(梶田 2016:4)

社会的に承認されるためには、「社会からの期待」に合わせて「自分自身をコントロール」する必要がある。 社会的承認を得られず、逸脱した存在となった女性を描いた作品に、『脂肪と言う名の服を着て』(安野モヨコ 2002)と『コンビニ人間』(村田沙耶香 2018)がある。

文学・少女漫画研究家の富山由紀子は安野モヨコの作品を、「『女の労働』には『男の視線』が介在していること、労働環境や労働意欲の違いを超えてあらゆる『女の労働』が『男の視線』とかかわりを持つものとして位置づけられている」(富山 2012: 8)という特徴があると語る。「男の視線」を内面化することを拒否し、「誰とも何処ともつながらず自分の殻に閉じこも」り、「他者との紐帯を一切遮断した純粋培養的な自己イメージを職場に持ち込もう」(富山 2012: 12)とした のこ は、当たり前のように社会から排除された。

また、『コンビニ人間』の主人公である古倉恵子は、コンビニの中でのみ女でも男でもない「コンビニ人間」として「世界の正常な部品」になれる。日本文学研究者の飯田祐子は、

この作品では、セクシュアリティは消されている。もともと『性経験はないものの、自分のセクシャリティを特に意識したこともない』、『性に無頓着なだけで、特に悩んだことはなかった』古倉にとって、『交尾』とも形容される『性交』をするのは『不気味で気が進まなかった』という具合に、性的指向や欲望のオルタナティブを探る契機もないままに丸ごとセクシュアリティは退けられている。(飯田 2019: 53)

と分析する。この状態で許されるのがコンビニなのである。男であることも女であることも期待されない場所。それは働いている女性が一度は夢見るような場所ではないだろうか。しかしひとたびこの外に出てしまえば、36歳で就職経験も恋愛経験もない、社会の暗黙のルールが理解できない気味悪がられる存在になってしまう。だからこそ古倉恵子はコンビニ店員である自分というアイデンティティをなによりも大事にし、「細胞全部がコンビニのために存在している」(村田 2018:149-50)とまで断言するのである。

社会からの役割期待に沿うことを放棄した彼女の「正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく」(村田 2016:77)という言葉は、私たちが生きる現代社会の歪さを冷静にあらわしている。

女のコミュニティの中で息が出来ず、殻に閉じこもることを選んだ前者の主人公 のこ が最終的にコンビニのバイトを選んだことは、かなり示唆的な描写なのではないだろうか。

この二つの作品に共通するのは、男の視線を内面化し、社会の役割期待に沿った女になることでしか女性は社会的承認を得られないという認識である。女を捨てた(性別そのものの概念から脱出した)女性を待っているのは、社会におけるコミュニティからの脱落であり、梶田の言うように「引き篭り」か、あるいは「周囲との間に多大な軋轢を経験することになる」かを強いられることになるだろう。

ただ、〈異性として意識できない女〉という、ある意味〈女を捨てた〉とされる女性は別の役割期待を押し付けられるという意見もある。それは「おばちゃん」である。2020年10月、篠原信というライターのあるツイートが話題になり、多くの女性の意見が寄せられるムーブメントがあった。

篠原によると、独身の中年男性は社会から虐げられているが、問題にもされない。彼らを孤独から救いコミュニティへの架け橋となってくれるのが「おばちゃん」であり、「おばちゃん」の減少と中年男性の凶悪事件の増加、それによる独り身男性への厳しい視線には因果関係があるとした。そのため「中年以上の女性で、我こそはと思わん方は、ぜひ『おばちゃん』になってあげてほしい」(篠原 2020)と篠原は述べる。

篠原のツイートが話題になったのは、〈女のモノ化〉や「『男性は女性にケアされ、女性は他人をケアするもの』という固定観念」(川上 2020)が浮き彫りになったからである。もちろん中年男性の生きづらさはあるだろうが、セーフティネットの役割は女性だけが果たすべきものではない。こう考えていくと、女性は死ぬまで社会からの望まぬ役割期待を背負わされて生きていかなければいけないのかとすら思えてくる。

地方から「金の卵」として集団就職し、のちに射殺事件を起こしてしまう青年、N.Nについて分析している社会学者の見田宗介は、N.Nを苦しめた「まなざし」とは、「具象的な表相性(服装、容姿、持ち物)にしろ」「抽象的な表相性(出生、学歴、肩書き)にしろ」「ある表相性において、ひとりの人間の総体を規定し、予科するまなざし」(見田 2018: 40)だと述べる。そんなまなざしの囚人となったN.Nは、自分は獄中でやっと解放されたと語り、フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』を読んで、「『望むとおりに理解されることの不可能』ということば」(見田 2018: 60)を書き写し、傍線まで引いていたという。見田のいう「まなざしの地獄」は、梶田の「社会からの期待」と近いものがあるのではないだろうか。

女性は自分の望まないかたちでまなざされ、消費されている側面がある。ミニスカートを履けば異性の気を引くためと言われ、後の章で詳しく触れるが、女性は女性のままで〈コンテンツの正当な消費者〉になれなかった。何かを好きでいる自分を、そのまま認めてもらうことができなかったのである。

 

3-2.  アイドルが可能にする<まなざしからの解放>


3-1で述べたような、期待を込めた視線でまなざされる女性の苦しみは容易に想像できる。アイドルファンの女性たちは、役割期待からの一時的な逃避〉という生存戦略として、アイドルを応援しているのではないだろうか。

宝塚歌劇団を研究する社会学者の東園子は、「美化された異性愛が描かれる舞台を好む『宝塚』ファンは、いつまでも王子様との恋物語を夢見る女性だと思われがちだ。だが、彼女たちが『宝塚』に見出しているのは、実は女同士のホモソーシャル(恋愛、または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性)な絆かもしれないのである」と述べる。

女子校は同性だけの空間であるので、その内部では基本的に異性愛が発生しない。同世代の異性から隔離された女子校の生徒は、一般的に女性に課せられている異性愛の義務を免除され、女同士の絆を最重視することが許された存在だと言えよう(東 2007:222)。

ここで述べられている宝塚の世界では、男の視線が存在しない。つまりまなざされる恐怖から自由になれる世界である。男性アイドルは宝塚とは異なり異性であるが、ファンが一方的にまなざす関係である為に、内面化すべき役割期待を含んだ視線が存在しないといえる。

また、自らをレズビアンだと紹介するアイドルファンは、「レズなのにジャニーズが好きなの?」というタイトルのブログ内で、

「そういう風〔前述「推しと仕事がしたい、推しのシンメ(シンメトリーの略。この文脈では「相棒」のような絶対的な関係性のことを指す)になりたい、もはや推し自身になりたい。」〕に推しをみているとき、わたしはじぶんが『女』であることを忘れている。」「ケンティージャニーズ事務所所属タレントの中島健人〕は、わたしに何の見返りも求めない。『女』であることも、『女らしく』あることも、もっと言ってしまえば『男を好きである』ことも。」「『女』としての感情的、あるいは肉体的な奉仕を一切求めずに、ただただ好きでいることを許してくれる」と語っている。(なめこ 2018)

まさに、アイドルである「ケンティー」は、あらゆる期待役割からファンを解放する存在である。 

このように、ファンがある意味一方的にアイドルをまなざす関係が保たれているからこそ、日頃望まない役割期待を内面化しながら生活している女性たちにとって、アイドルは一種の逃避先としての役割を果たしているのではないだろうか。

 

3-3. アイドルが可能にする<まなざしへの積極的な参加>

そしてコインの裏表のように、アイドルを応援するということは、まなざされることからの逃避と共に、女性自身が積極的にまなざしているという側面がある。

女性による「萌え」について、社会学者の吉光正絵、西原は、「『妄想する』という脳内世界に根差す言説はもちろん、『目撃する』『要観察』『萌え目線を送ってしま』うなど、まなざしにまつわる言説が多用されている。女性オタクによる〈萌え〉語りには、主体的・積極的に対象をまなざし、そこにかわいさを発見しようとする振る舞いを読みとることができる」(吉光・池田・西原 2017:37)と述べた。

そしてBL漫画家の中村明日美子が自身の〈萌え〉対象として「非おしゃれ眼鏡男子」を挙げた語りに触れ、以下のように述べた。

観察者である中村が見出す〈萌え〉。ここで、観察の対象となる男性は「無自覚で無意識で無防備で」ある必要がある。観察される側は、自分自身の姿を「魅力」的だとはみなしていない。その姿を一方的に見つめて「魅力」と感じる、つまり、本来はそこが魅力とはみなされないはずのものを魅力的なものとして位置づけることで、観察者自身が〈萌え〉る“物語”を生み出す主体となる。まなざしのベクトルは基本的に一方通行だ。〈萌え〉の対象によるなんらかの反応は求められていないし、〈萌え〉の対象から逆にまなざし返されることも想定されていない。だからこそ、自由な想像力で自らの〈萌え〉を存分に味わうことができるのである。(吉光・西原2017:39)

吉光と西原が指摘したように、今までまなざされる苦しみを味わってきた女性たちは、箱男のように自分がまなざし返されることのない安寧の地で、一方的にまなざす主体となることが出来るのである。

哲学者の千葉雅也が指摘するように、「もともと見た目で判断されていたのは女性であり、男性は見た目とは関係なく実質で判断されるものだ、というのが従来の非対称性」であったが、「男性アイドルの存在が大きくなることで、男性もまたルッキズムに晒されるということが起きた」(千葉 2019: 19-20)。つまり、男性アイドルの存在は、女性がまなざす主体となることを可能にする存在といえる。

また、女性が主体となる喜び、安心感について、いわゆる2.5次元ジャンルのファンを自称する女性は、「私みたいな若いふつ~~~の女がロックとかヘビメタとか好きって言おうものなら、『①彼氏か父親の影響』『②ボーカル及びメンバーの顔ファン』って反応を返される」と、自分の意図する形で応援できないもどかしさを語る。

そして、アイドルを応援する理由について、「若い女性がなぜK-POPにはまるのか、なぜジャニーズに、なぜメン地下に、なぜ若手俳優に、なぜ2.5次元に。そこにはもちろん個々人の価値観や感性もあるだろうけど」「『コンテンツの正当な消費者になれるから』があるんじゃないかと思う。」(BUN太 2019)と述べる。

彼女の記述でもうひとつ興味深いのは、女性が「正当な消費者」になるために男性に近づこうとしていたのではないかという考察だ。

女子中学生がなぜか女キャラに対して「おっぱい」「エロい」「hshs」とか言い出す現象って、私も経験したんだけど、あれは女でなく男オタクに近づこうとする心理があったんじゃないかと当時を振り返れば思う。男キャラをかっこいいとか可愛いって言っただけで腐女子って言われたし、ジャンプ等の少年漫画に腐女子がついたらジャンルは終わりって言われた。(BUN太 2019)

つまり、女性は女性のままでは「正当な消費者」になれなかった。まなざされるのは女性、まなざすのは男性、という力関係は絶対的だと考えられていた。そんな環境に置かれる女性たちにとって、アイドルは自分以外の何者かに擬態することなく「正当な消費者」になることを許してくれる存在だといえる。

しかし、元々まなざされていた女性たちが主体となってまなざすことの難しさについて、吉光と西原はこう語る。

女性たちによる〈萌え〉語りは、一見すると楽しく無邪気なように思われる。しかし実際には、その語りの表明には多くの不自由が伴う。そもそも現実では、異性からであれ同性からであれ、女性が他者のまなざしの対象となり、そのまなざしを内面化することで他者から違和感を持たれないように振る舞うことの方が頻繁に起きるからだ。(吉光・西原2017:40)

日頃まなざされる側に置かれているからこそ、女性は<まなざしの暴力性>を自覚しているのではないだろうか。千葉はあえて強い表現で「ジャニーズは、男をまなざしの地獄に巻き込んだ」(千葉 2019: 20)とも述べる。

だからこそ、アイドルはあえてまなざしやすいように準備をしていると考える。

アイドル的人気を得る若手俳優について、元俳優でYoutuberの阿久津愼太郎は、アメリカ文学研究者の足立伊織との対談で次のように語る。

「(吉沢亮(俳優)は自身が『イケメン』であることに対して自覚的であることに対し)自分が見られる存在であるという意識が強いので、こちらもまなざしていいんだという精神的な安定感がある」。(阿久津・足立 2019: 80)

また、ジャニーズ事務所でジャニーズJrとして活動した後、事務所からユニットごと独立した7ORDER projectのリーダーである安井謙太郎は、自分たちをアイドルと思うか?という質問に対し、「(応援している方たちにとっては)アイドルと言ってもらったほうが見やすいのかな」と答え、自身がアイドルと捉えられることに関して、「それは(ファンが)どういうふうにその人を見ているか、応援しているかというところだから」「僕は自分の心に寄り添ってくれるのがアイドルなのかなと思いますけど、どのように見てもらってもいい。でもそれも自分たちでわざわざ言うようなことでもない時代なのかなと」(7ORDER project 2019: 13)と、語る。

また同グループに所属する森田美勇人は、ファンの目線に立ち、「アイドルと言われたときの、はっきりしていない感じにも興味をそそられるかもしれない。深堀りしたときにおもしろい性格の人を見つけたとか、アイドルっていろいろ掘り下げたくなる存在なのかなと思います」(7ORDER project 2019: 12)と語った。

このような〈どのようにまなざされてもいい〉といったアイドルの態度について、歌手の大木貢祐は「アイドル性には意図的でもそうでなくても、ある程度の空っぽさが肝要なのだ。隙間にたくさん書き込んでもらうこと、そしてそれを気にしながら活動し、ファンの自由な物語の創造を邪魔しないことが、現代のアイドル性ではないだろうか」(大木 2019: 263)と分析する。

その余白の大小に差はあれど、相手がまなざしに対し自覚的な部分を持っているからこそ、女性たちは安心して「正当な消費の主体」となることができるのだと考える。

 

3-4.  アイドルの持つ<物語>が果たす役割


さらにアイドルは「見られる存在であるという意識」にとどまらず、まなざされるための物語を用意している。この物語という存在は、まなざされる側の身を守る盾になるだけでなく、まなざす側の心理的負担を軽減するものでもあるといえる。この枠内であれば好きなように消費してもよいという免罪符の存在は大きい。

日本現代文学研究者の岩川ありさは、ジャニーズ事務所所属のタレントのKing&Princeというグループがライブでファンに語りかける言葉に注目する。

同グループの永瀬廉の言葉である、「ここ大阪城ホールはですね、ジャニーズとしての僕が生まれた場所です。やっぱりこうやって改めてデビューしてここに立てたというのはほんまにうれしいことですし・・・・・・また僕ら六人、大きくなってここに戻ってきたいと思います」を引用し、「(永瀬は)『生まれた場所』という言葉を用いることによって、アイドルとしての誕生の物語を語る。永瀬が語るのは、アイドルとして生き、原点へと戻ってきた回帰の物語でもある」(岩川 2019: 126)と述べた。

また、アイドルは「出会いの物語」を多く語ると分析し、特にジャニーズのタレントは「オーディションのときやJr.に入ったときにはじめて話した相手のエピソードを繰り返しする」(岩川 2019: 126)という。これらのアイドルの行為は、2章で話した「純粋な関係」を投影しやすい物語、世界観をファンに提供しているといえる。

また、岩川は「アイドルである彼らがKing&Princeであるためには、ファンによって『彼らの物語』が分かち持たれなければならない」(岩川 2019: 127)とも述べる。応援する女性たちがアイドルの提供する世界観の中でまなざす主体となることで、アイドルはアイドルとして存在し得るという側面もある。そう考えるとKing&Princeの1stシングルである「シンデレラガール」の歌詞、「I wanna always be your King&Prince」はまさにそのようなアイドルの姿勢を表した言葉である。

また、若い女性から多くの人気を集め話題となった「HIGH&LOW」に付随する、いわゆる「EXILE系」の変遷も興味深いものがある。

ライターの西森路代は、「EXILE系」は「地元のマイルドヤンキー」と結びつけて考えられていたが、ある時期から、三代目J SOUL BROTHERSのメンバーが少女漫画のヒロインの相手役を演じるなど「戦略的に女性に訴求する」(西森 2019: 210)動きが増えていったと語る。これはまさに千葉が分析する「男の硬直性を男でありながら脱構築する」という「ジャニーズ的な華やかさ」(千葉 2019: 21)に近づいていった動きではないか。

その流れの先にあったのが、2015年10月にスタートしたテレビドラマ、『HIGH&LOW ~THE STORY OF S.W.O.R.D.~』である。この作品はシリーズ化され、メディアミックスしながら今でも続いているが、その大きな特徴は「(演じているLDH所属のタレント)本人のキャラクターの魅力を物語によって何倍にもして拡散」(西森 2019: 212)したことである。西森はこの『HIGH&LOW』を「メンバーひとりひとりが、どんな顔を持っているのか、その人となりを知ることのできるツール」と説明する。このツールは、先ほど触れた〈アイドルの物語〉と共通した側面を持つと考える。西森は、「LDHの面々は、一枚キャラクターをまとうことで、アイドル性により近づいた」(西森 2019: 213)とし、そのキャラクターについてこのように語る。

キャラクターを知ってもらうということは、アイドルにとってもっとも重要なことの一つである。またキャラクターを通じて人を観察することで」(=「本人が演じた本人に近いキャラクターのことを消費もしくは考察する」ことで)「アイドル本人の心理的ストレスも少なくなる」と考えられ、「本人をどこまで消費していいものかという躊躇」からくるファンのストレスも少なくなる(西森 2019: 213)

これはまさに、〈アイドルの物語〉である。「それまで、アイドルというのは歌とダンスで見せ、そしてバラエティで素を出すということで、本人のキャラクターを知ってもらう」(西森 2019: 212)という形を取り、その「無節操さは、かつては男はひとつの道を追求するものだ」「という保守性を脱構築するものだった」(千葉 2019: 21)が、LDHのタレントは、新たな物語の提示方法を発見したのである。

さらにLDHの代表であるHIROは「以前より『物語』『ストーリー』の重要さについて語って」(西森 2019: 213)いたということからも、戦略的に〈安心して〉まなざすことのできる仕組みを作ったと考えられる。

また先ほど、応援する女性たちがアイドルの提供する世界観の中でまなざす主体となることで、アイドルはアイドルとして存在し得ると述べたが、その意味でアイドル自身は社会から逸脱した存在だと言うこともできる。

心理占星術研究家の鏡リュウジは、男性アイドルに「永遠の少年」像を重ね合わせている。一歩その物語から出れば、「男のくせに歌って踊るなんて!」「大した芸もないくせに、顔と事務所の力だけで!」(鏡 2019: 27)と成人男性からは否定的な声も上がるような存在である男性アイドルが、「絶対の自信。その純粋さ」を維持するためには「あくまでもイデアの世界、あるいは集合的無意識の世界でしか実在できない」(鏡 2019: 26)と考察する。

2020年現在、男性アイドルにそこまでの偏見を持つものは少ないとは思うが、地下アイドルやアイドル的な人気を集める2.5次元俳優、小中学生からアイドル活動をしている少年たちに対してはどうだろうか?「制度化とシステム化、社会化は、本質的に『永遠の少年』元型の敵である」(鏡 2019: 28)と鏡は述べる。彼らは社会化から〈物語〉という枠組みによって隔離された、つまり逸脱した存在だということだ。そして、物語とは私たちが生きる社会から隔てたところにあるからこそ意味がある。

足立は日本の男性アイドルの持つ異様に装飾過多な衣装や不統一性について触れ、「いまはネットがそういうノリを全面化させて、マンガのひとコマを切り抜いてきておもしろがるような場所になっている。逆にそこから逃れて、アイロニカルではなく本気で熱くなれる場所として、アイドル現場にきている人も少なくないのかもしれない」(阿久津・足立 2019: 86)と語る。外部規範が通用しない物語世界の中だからこそ、より世界観に没頭・没入することが出来る。たしかにそれはアイドルファンならではの体験かもしれない。

オタクを研究するライターの大泉実成は、オタクを「パロディの人」「オマージュの人」の2種類に分類する。そして「オマージュの人」をあらゆるオタクの原型だとしてこう語る。「心を許せない、大きくて理不尽な世間というもの。Uさんの怒りはその世界にいつも囲繞されているという意識から来るのかもしれなかった。そしてその怒りが、彼を自分の愛する作品へとより深くもぐりこませているように僕には見えた」。そして、「彼の怒りの対象は、単なる世間というよりは、自分の身体も含めた、理不尽な世界そのものになるのかもしれなかった」。つまり、「世界と自分のズレを調節するために怒りが発動し、その怒りは同時に彼が親密にしている作品世界への沈潜をうながす。そして作品世界に対する強い愛情が、さらに世界に対する怒りを強めさせる。この絶えざる循環が、『オマージュの人』の過剰な妄想力を引き出している」(大泉 2017: 74)。

ここでいう「世界と自分のズレ」とはまさに「望む通りに理解されることの不可能」から来るものではなかろうか。

また、自分と世界へ向けられる感情は怒りだけでなく、諦念に似たものもあるだろう。アイドルを応援する女性を描いた『くたばれ地下アイドル』という小説に「自分の人生だけで十分面白かった時間ってのが、終わっちゃったんだよね」「アイドルは・・・無責任に他人の人生を面白がれる」(小林早代子 2018: 80-81)という台詞がある。このような発言をした登場人物は、先の見えない自分の将来を思うよりも、これから伸びしろのあるアイドルへ投資したり、消費するほうが楽しいという。

西は、「新たな状況と向き合う、『とにかく前向きな姿勢』や『未来志向』が〈アイドル〉を特徴づけるものであり、そして、それゆえにこそ、〈アイドル〉がいまや文化として確立されることになったのではないか」(西 2017: 11)と語る。「世界と自分のズレ」に向き合うことを諦め、輝かしい未来に意欲的なアイドルを応援することで物語世界へ沈潜していくパターンも考えられる。

どちらにせよ共通しているのは、日頃自分に向けられる役割期待を強く意識し、しかしその期待に応えられない、または応えたくない人々こそ、社会から隔たったアイドルの物語世界に惹かれ、深く入り込むのではないか、ということだ。大泉の言う「『オマージュの人』の過剰な妄想力」とはアイドルの物語をつくる力だ。物語を愛し、物語に沈潜する人々がさらに物語を拡大していき、アイドルはその物語によって存在することができる。アイドルとアイドルを応援する人々には、そのような関係性がある。

しかし、この物語もメリットばかりではない。見田はN・Nが青森時代、飲食店と実家を隔てるベニヤ板に穴を空け覗いていた話から、

覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの『逃避』であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。それはなるほど、『支配の安全弁』であるかもしれないけれども、同時にそれは、みじめな現実を生きるわれわれの心の中に、おしとどめようもなくある否定のエネルギーを蓄積してしまう(見田2017: 14)

と分析する。誤解を恐れずに言えば、N.Nがベニヤ板の穴から覗く様子はその一方性や自分を不可視化するという点で、ファンが物語の中でアイドルをまなざす様子に似ている。

アイドルを応援している人々に話を聞いていると、アイドルの応援を辞める理由に2つの傾向があることが分かる。1つ目は後述するが、2つ目はこのベニヤ板の構造に耐えられなくなった場合である。物語内でのみ許されるアイドルとの関係性に劣等感を抱いたり、社会の中での望まない自分の姿を、アイドルを応援する中でよりはっきりと自覚してしまったとき、「否定のエネルギー」が蓄積されてしまう。彼・彼女たちはアイドルを応援することをやめ、そうでなければアイドルを傷つける行動に出てしまう。

社会学者の稲増龍夫は、アイドルは虚構だからこそ美しいと述べ、「虚構が現実にして機能するためには、人々自身にとっては仕組みが隠蔽される必要がある」(稲増 1993: 26)という。物語は、このベニヤ板の構造を隠すためにあるともいえるが、完全ではないのだ。

例えば虚構の仕組みがあらわになる瞬間の一つに、アイドルのスキャンダルがある。ライターの山野萌絵は、これについて、

(アイドルがカノバレ(=彼女の存在が明るみになる)してオタクがショックを受けるという現象について)自我が分裂し「彼女がいることにショックを受けている自分」と、「冷静に考えてみれば彼女がいてもおかしくないと解っている自分」が並列に存在してしまうために、感情同士が摩擦を起こし、軋轢によって「なんかよく解らない憎しみ」が生まれてしまう(山野 2019: 171)

と分析する。そこには「『友人』とか『仕事仲間』とか、名前のついている人間関係だけで生きている人たちからすれば、『他人』の関係性の中で藻掻いているオタクの行動は滑稽で、どこかおかしい」(山野 2019: 172)かもしれないけれど、それでも「他人だとしても、どうにかして何かになりたい」(山野 2019: 171)という女性の複雑な感情があるという。

ミュージシャンの近田春夫は、積極的にアイドルの虚構を虚構として楽しみながら、その虚構の「出来の良さ」を論評していく応援スタイルもあると述べている(稲増 1993)。それはベニヤ板の構造をあえて楽しむことで、否定のエネルギーを発散させる一種の方法かもしれない。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

ご意見、ご感想お待ちしております。

次回の4章ではオタク間コミュニティ、永遠の問題である「新規v.s古株」について社会学的に考えてみます。

私たちはアイドルに何を見て、何を期待しているのか

今回は2章部分です。前回に比べかなり社会学の文献を参照するため少し読みづらくなっております。編集しましたが、だるいな~と思う部分は読み飛ばしていただいて、好きなところだけ読んでいただけたらと思います。

2. 相手との関係性による生きづらさ

 

2-1. 現代人の承認ゲーム

社会学者のウルリッヒ・ベックによれば、近代社会、特に後期近代以降の社会では、個人は伝統的な共同体や紐帯から解き放たれ、より多くの自己選択の機会を得るようになった。その一方で、個人は自己選択の帰結としての多大なリスクにさらされる(ベック 1986=1998, 2011)。

この『個人化』の議論は第二次大戦後の西ドイツを中心としたヨーロッパの資本主義社会を対象に論じられたが、社会学者の中森弘樹は、現代においても示唆的であると述べる。それは「既存の紐帯からの解放がなされる『第一の近代』と、『第一の近代』からの解放の後に形成された家族や中間集団にまで『個人化』の波が及ぶ『第二の近代』を区別し、現代を『第二の近代』として位置づけているという点」(中森 2017: 88)においてである。

中森は失踪の歴史をたどりながら、「高齢者所在不明問題」が高齢者の子どもたちの選択(責任)のようにメディアに取り上げられたことを、「家族関係に『第二の個人化』(『第二の近代』に対応する『個人化』)が波及し、人びとが家族の紐帯から解放されたことで、家族と関わるかどうかの選択が家族ではなく個人に帰せられるようになった」(中森 2017: 92)と分析する。また同時に「『個人化』によって達成された自由ではなく、むしろ排除への非難」という風潮が広がり、「ここにおいて、人間関係の自由の高まりが、排除のリスクへと転化したことがはっきりと見てとれる」(中森 2017: 92)と述べる。どんな人と出会い、関係を築くかは個人の自由になったが、その関係を絶つことは大きな責任を伴う。それは結局、関係の維持に大きなリスクとストレスをはらんでいるということだ。

土井隆義は現代人の人間関係を「優しい関係」と呼び、もしそれぞれの立場に相克やズレがあったとしても、あえてそれを顕在化させないように営まれる繊細な人間関係だと説明する。また、優しい関係の問題点としてお互いの利害のあからさまな衝突がもたらすような重さではなく、むしろ過剰なほど配慮のし合いを必要とするという点を挙げた。お互いの相違点がどこにあるのかという確認を避けるような関係は、相手の顔色を伺いながら自分の行為を決定していかなければならない。すこしでもズレが生じれば、修復不可能な状態に達してしまうという。そしてその閉鎖性から他の人間関係へ乗り換えることも、一人で生きていくことも困難だとも述べる(土井 2012)。

日本の心理学、哲学の分野における著作家である山竹伸二は、このような関係について「仲間であることを確認(承認)しあうゲーム」(山竹 2011: 10-12)と呼ぶ。そしてその「承認」とは「価値のある行為によって認められるわけでも、愛情や共感によって認め合うわけでもない。それは場の空気に左右される中身の無い承認」だとした。このようなゲームにある関係は本当の自分を偽って他者に同調するために(「自分の思うままに行動したい、感じたままに発言したい、という思いは『本音を出したら嫌われるかもしれない』という不安によって、ある程度まで我慢せざるを得なくなる。」)、「自己不全感」がつきまとい、さらに少しでも「承認」関係が崩れると「自己否定的感情に襲われ、絶望的な気持ちになるのである」(山竹 2011:10-12)。

「優しい関係」、「承認ゲーム」が表す関係性からは、周りからの承認を失うことへの恐怖から本音を伝えられず、少しのミスによって承認関係が崩れると自らの存在価値を失ったように感じてしまう現代人の姿が分かる。絶つことへの責任だけでなく、自分の存在を承認してもらうためにも、現代人は関係性の維持にかなり気を遣い、自分を押し殺すなど、ありのままの自分で関係を築くことは難しいと考えていることが分かる。

 

2-2. 愛と応答責任


 社会学者の二クラス・ルーマンは、「愛されることは、他者によって、比類のない唯一の存在として扱われることを意味する」(バウマン・メイ 2016: 187)と語る。「承認ゲーム」のような、常にひやひやしながら危ない橋を渡る必要のある関係性とは反対の位置にあるのが、愛によって結ばれる関係ではないだろうか。

愛されるものは自分自身や自分の要求についてのイメージを正当化するのに、普遍的な規則に訴える必要がないということがそれである。それはまた、愛する者が、相手の独立、自己決定権、自己選択権を容認し確認していることを意味する。この場合、愛する者は、相手が断固としてこう表明す
るのを認めているのと同じである。『これが、わたしです。わたしのすることです・わたしのいるところです。』(バウマン・メイ 2017: 187)

という通り、自分が自分のままで受け入れられ、他のものさしによって測られることのない、素晴らしい関係である。しかし愛はこの愛の特性上、多くの矛盾を孕んでいるため、維持が困難だ。

「『愛される』ことはまた、『理解される』ことを意味する」(バウマン・メイ 2017: 187)。しかし、「愛の関係をとりわけ脆弱なものにするのは、互酬性の要求である。もし、わたしたちが愛を求めるならば、相手も返礼―愛をもって応えること―を求める」のは容易に想像できるだろう。「双方が、相手の経験や期待を、修正や妥協を求めることなく、そのまま受け入れることはありそうもない。関係の継続のために、一方あるいは双方が道を譲らなければならない。しかし『自分らしさ』を放棄することは、愛の目的や愛の欲求―愛が満たすことを期待される欲求―を無視するものである」(バウマン・メイ 2017: 189)。ここには、「承認」を得る為にびくびくすることなく、ありのままの自分でいたいという望みが果たされる関係性を維持するためには、自分を曲げなければならないという矛盾がある。

つまり、「愛情はその性質がゆえに、必ずしも関係を存続させたいという意思、すなわち『努力協定』としての『コミットメント』の維持には帰結しない」(中森 2017: 36)のである。

「幸福な結末までの道はいばらの道で、多くの忍耐と理解なくして無傷で切り抜けることはできない。うまくやるカップルも多いが、理想と現実の乖離は往々にして欲求不満や対立関係をもたらす。それが顕在化して、カップルが離婚や別離にいたったり、カップル内でDV問題が生じたりもする」(バウマン・メイ 2017: 189)。空虚な「承認ゲーム」から脱した関係性を築けたと思えば、その維持には多大なリスクと負担が必要になる。現代を生きる人々には、このような生きづらさが存在しているといえる。

 

2-3. アイドルの持つ「純粋な関係」の可能性


2-3-1. 関係性からみるジャニーズアイドルの変遷


2-1.2-2で述べたような生きづらさを感じている現代女性は、自分では達成し難い〈特別な関係性〉をアイドルに投影し救われている部分があるのではないかと考える。

書店に並ぶアイドル誌の表紙を見ていると、「仲よし」「ベストコンビ大賞」「わちゃわちゃ座談会」などという文字が目に付いた。SNSではアイドル同士の不仲説がよく話題になり、それが根も葉もない噂であってもグループの人気を大きく左右することがある。またSNS上には、自分がメンバーの一員となって活動する妄想を繰り広げているファンもいる。現在のファンは「対自分」の王子様的な恋愛対象にあたるアイドルとしてだけでなく、所属するグループの中での関係も重視しているようである。それは「箱推し」とよばれるグループ全員のわちゃわちゃを含めて好き、といったファンや「DD(誰でも大好き)」といったファン用語にもあらわれているだろう。

ところで、このような「わちゃわちゃ」は昔から人気の重要な要素だったのだろうか?ここでは男性アイドルを考える上で避けては通れないジャニーズ事務所の歴史から考えていく。ジャニーズ事務所の所属タレントで80年代前半に活躍していたのは「たのきんトリオ」である。しかしトリオという名がついているものの、田原俊彦野村義男、近藤雅彦それぞれの個人の活動がメインであった。その後1982年に「シブがき隊」がデビューし、3年後には「少年隊」がレコードデビューする。続いて90年代前半まで圧倒的な人気を誇ったのが1987年デビューの「光GENJI」である。しかし彼らもメンバー同士の絆のようなものがフューチャーされることはなく、個人のタレントとしての魅力や、ダンス・歌のスキルなどによって評価されていたようだ。そして「光GENJI」解散後、「SMAP」がデビューする。彼らは今までのスター性の強いアイドル像ではなく、バラエティにも果敢に挑戦し、パフォーマンスする楽曲もクラブミュージックや渋谷系の音楽を意識するなどよりカジュアルなアイドル像をつくったとされる。また、「5スマ」「群れスマ」「わちゃスマ」などといった、グループ内での仲のよさをあらわすファン用語や、「2TOP(中居正広木村拓哉)」「しんつよ(香取慎吾・草彅剛)」などグループ内の特定の2~3人に名前をつける現象も生まれた(筆者が調べた中ではSMAP以前にグループ内にコンビ名が存在するジャニーズグループは見受けられなかった)。このことから、SMAPのファンたちがメンバー同士の絆をグループの魅力として強く重視していることが分かる(メンバーのひとりである森且行が脱退したのもひとつの要素と考えられる)。このような傾向がさらに色濃く強調されているのが、現在ジャニーズ事務所で一番の人気を誇っているといわれている「嵐」である。元SMAPの中居正弘が2015 年 3 月 30 日放送フジテレビ「SMAPxSMAP」スペシャルの中で「僕の一方的な思いかもしれないですけど,お互いに干渉をせずにやってるかな。仲良しこよしの,楽しくってしょうがないっていうチームとはちょっと違うので。でも,そこがここまでやってこられた要因だと思います」と語ったように、ある程度距離感を保った関係性であったSMAPに対し、嵐はメンバー同士の関係性にいい意味であまり緊張感を感じられず、プライベート的な仲のよさが読み取れて癒される、というように評価されているようだ。

 

2-3-2. アイドルに投影される「純粋な関係」


社会学者の西原麻里は、2012年4月号から2013年3月号までの芸能雑誌『Myojo』を対象に、ジャニーズタレントが登場する記事の内容分析をおこない、「異性愛言説よりも、他のジャニーズタレントや同性の俳優、プライベートな同性の友人などと築く友愛の言説のほうが登場頻度が高い」(西原 2017: 96)と述べた。また、「まるでBLのように読める、男性同士の恋愛として解釈が可能な表現が使われていた」(西原 2017: 96)という。さらに「ジャニーズタレントの〈絆〉の描かれ方をみてみると、」「ジャニーズタレントを鑑賞し楽しむ女性のまなざし」(西原 2017: 101)の存在が色濃く反映されているとも述べた。

筆者は現代女性がアイドルに投影しているこのような関係性は、ギデンズが提唱した純粋な関係と近いものがあるのではないかと考える。ギデンズによると、「『純粋な関係』とは、『外的な基準がそこでは解消してしまうような関係』であり、『伝統的文脈での緊密な個人的つながりと比べて、純粋な関係性は社会的・経済的生活といった外的条件にはつなぎ止められていない―それはいわば自由に浮遊している』」(中森 2017: 26)ような関係である。

「『純粋な関係』において外的条件の代わりに」重要になるのが『コミットメント(commitment)』」だ。「『コミットメント』は、『自己投入』や『自発的な関わり合い』の意味」で、「『ロマンティック・ラブ』や、友人関係は『コミットメント』のあり方の一つ」(中森 2017: 26)であるという。また、「『コミットメント』に基づく関係は、パートナーに与えるもののためだけに求められ、その唯一の見返りは関係性事態に内在するものとなる。すなわち『純粋な関係』においてはその関係自体が目的なのであり、それゆえにパートナー間で何か問題が起これば、関係の尊属が脅かされることになってしまう」(中森 2017: 27)という特徴がある。ギデンズは「友人関係は『純粋な関係』の特徴―『それが他者との緊密な接触から得られる情緒的満足のゆえに始められ、そうであるかぎりで存続する』-をよりはっきりとさせるもの」だと捉えており、それは「友人が『ある人が関係それ自体による見返り以外によっては促されないような関係を持っている誰か』として定義される」(中森 2017: 28)と考えていたからだった。さらにギデンズによれば、「親子関係およびそれより広い血縁関係は、純粋な関係性の射程からは部分的に離れたところに留まりつづける」という。「親子関係や血縁関係は、生物学的なつながりという外的な基準に拘束され続けるからである」。「しかしそれらも、脱埋め込み化メカニズムの影響を受けることで、『純粋な関係』の性質を帯びつつある」とギデンズは言う。「たとえば、血縁関係は伝統的義務や拘束が剥ぎ取られることで、形骸化することがある」(中森 2017: 28)とも述べる。つまり純粋な関係とは特定の関係に限られずに、友情関係・恋愛関係・家族関係などへ援用できる概念ということだ。以下は社会学者の山田真茂留の定義である。

①社会的・経済的生活の外的諸条件に依存しない(因習にとらわれない)
②関与者たちの関心のためにのみ維持される(社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生み出しているとみなす限りにおいて関係を続けていく)
③反省的でオープンな組織化がなされる(自己と他者のモニタリングが必要不可欠、他者の特質を
知り、自己開示することが重要)
④外的な絆ではなくコミットメントが重要
⑤親密性に焦点が当てられる(しかし共依存嗜癖的きずなではない)(親密な関係性とは、平等対人関係の下で自己や他人との気持ちの通じ合いのこと)
⑥相互に信頼を獲得していくことが肝心(外部の支えがないため)
アイデンティティは親密性の発展のなかで彫琢される(再帰的自己自覚的契機、つまり自分の行動の選択の自由により自己のアイデンティティを見いだす)(山田 2017:11)

これらの条件に、ジャニーズタレントがどうあてはまっているのか(どう投影されているのか)を見ていく。

まず、①の社会的・経済的生活の外的諸条件に依存しないという点だが、ジャニーズ事務所のアイドルを例に取ると、グループとして活動している彼らはもちろん家族ではない。デビューのエピソードとしてよく語られるのは、偶然集められ突然デビューが決まった、というものである。そしてある程度活動して月日が経つと、このメンバーでなければやってこられなかった、あるいはこれから先やっていけないだろう、という発言や演出が自明視されていく(もちろん本心でそう思っていることもあるだろう)。彼らは、家族や夫婦といった制度化された関係ではなく「SMAP」、「嵐」でしかありえない。これは②の「関与者の関心のためにのみ存在する。」にも関係してくるが、互いに一緒に活動をしたくてそばにいる、互いを尊敬しあい高めあっていく相互志向関係においても、一緒に有名になりたい、アイドルとしてもっと高みを目指したいという共同志向関係においても、どちらにせよこのメンバーでなければならないと全員が認識している上で活動しているという姿が投影されているのだ。③~⑦については、ジャニーズ事務所の大きな特徴であるジャニーズJr(以下Jrと表記)という段階が大きな役割を果たしている。彼らはCDデビューする前段階として、Jrとして先輩アイドルのバックダンサーを務めたり、Jr同士で期間限定のユニットを組んだり、時にはJrのみで舞台をこなすこともある。その過程で、お互いをよく知り、絆を深めているはずだ、という歴史的蓄積の感覚がファンに生まれるのだ。そしてさまざまなタイプのいるJrの中で揉まれるうちに、周りとキャラ被りしないような自分のキャラクターを見つける過程でアイデンティティが形成される。またJr時代があるからこそ、応援するアイドルと他グループのメンバー(あるいはまだデビューしていないJr)との関係もファンは楽しむことが出来る。グループという枠組みがないため、さらに純粋な関係と考えるファンもいるだろう。
また最近アイドルのオーディション番組が流行しているのは興味深い。NiziUを輩出したNiziProjectやJO1を輩出したPRODUCE 101 JAPANの人気は記憶に新しいだろう。これらはまさに「純粋な関係」が生まれていく過程を見守る番組である。

 

2-3-3. 純粋な関係の不完全性とその矛盾


我々が「純粋な関係」を維持する上で問題となるのはなんだろうか。中森は関係維持に不可欠なコミットメントについて、応答責任という概念を用いて説明する。このような関係性には「たとえどのような事情があっても他者に応答しなければならないという、根源的責任の倫理」(中森 2017: 240)がついて回るとし、「私たちは、責任の倫理の要請から、配慮と応答をし合うことで『親密な関係』を維持する」(中森 2017: 254)のである。これがあまりにも当事者にとって負担になると、自殺、つまり「みずからの死をもって、その責任に対して応答することが不可能であるということを提示」し、「自己にとっては大きすぎる責任の追及を終了させる」(中森 2017: 302)と分析する。

社会学者のリチャード・セネットは、「破壊的ゲマインシャフト」という言葉を用いて「両当事者が過度に親密性intimacyの権利を追求する」(バウマン・メイ 2017: 190)ことで生まれる困難を呈示する。

そこでは自分自身を相手にさらけだし、自分の精神生活に関する最も私的な真実も、うそ偽りなく、すべて相手と分かち合うことになる。つまりは相手をひどく動揺させる情報であっても、何事も包み隠さず相手に伝えることがそこでの流儀となる。結果として、相手は途方もない重荷を両肩に背負わされる。相手は必ずしも興味のもてない事柄に同意するとともに、応答に際しても自らも誠実かつ正直であることを求められる。(バウマン・メイ 2017: 190)

このように、「純粋な関係」のような親密な関係を維持するためには、自分にも相手にも、多大な労力と負担が必要になるのだ。日常では手に入らない憧れの関係だからこそ、アイドルに投影して楽しむのである。

しかし、アイドルが純粋な「純粋な関係」を築いている訳ではない。それらはファンが理想的な関係を投影しているだけであって、100%の事実ではないからである。そもそもグループ結成におけるメンバー選出の時点で、事務所の社長や役員の意向、またJr時代の人気順など様々な情報が加味され、考えられている。関係のスタートは自己志向の結果ではなく、きわめて受動的なものである。さらにはJr時代のユニットの人気が高すぎて、CDデビューしたグループに反対的な意見があがることもあるのだ。そして大前提として彼らは金銭をうけとり、仕事としてアイドルをしている。もちろんメンバー同士の相性や切磋琢磨する過程も大事だが、食べていく為にグループとして活動しているのである。脱退してソロで活動するには大きなリスクが伴う。グループでいればCD売り上げも、知名度の向上も一人でいるより圧倒的に期待できるからだ。また、そのようなグループの中でも人気格差があるため平等な関係とは言い難い部分もあるだろう。

しかし、これらの側面はアイドルを応援する女性たちにとって、大きな問題ではない。それは応援している女性達がこのような商業的な一面を理解していないという意味ではなく、彼女たちはアイドルの全てを受け入れる必要はないからである。見たいところだけ見て楽しむ、という行為が許されているのがアイドルだからである。このことについては、次章のまなざしへの積極的な参加の部分で詳しく説明していく。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

次回の3章は一番力をかけて書いた部分なので、ぜひ読んでほしいです。

ご意見、感想もお待ちしています。孫引きについては多めに見てください。すみません。

アイドルオタクは性的消費者?そろそろ真剣に向き合ってみる。

アイドルとはなにか。アイドルを応援するとはどういうことか。
考え続けた結果、卒論を書きました。
少し編集してみたので、読んでもらえたら嬉しいです。

目次

​1. はじめに
2. 相手との関係性における生きづらさ
2-1. 現代人の承認ゲーム
2-2. 愛と応答責任
2-3. アイドルの持つ「純粋な関係」の可能性
 2-3-1. 関係性からみるジャニーズアイドルの変遷
 2-3-2. アイドルに投影される「純粋な関係」
 2-3-3. 「純粋な関係」の不完全性とその矛盾
3. 否応なしに置かれる社会との関係性における生きづらさ
3-1. 『望むとおりに理解されることの不可能』
3-2. アイドルが可能にする<まなざしからの解放>
3-3. アイドルが可能にする<まなざしへの積極的な参加>
3-4. アイドルの持つ<物語>が果たす役割
4. 帰属するコミュニティとの関係性における生きづらさ
4-1. 何者かでなくてはならない苦しみ 
4-2. アイドルが可能にする<理想のアイデンティティ形成>
5. おわりに

 簡単に言うと、

2章→ 私たちがアイドルへ投影しているもの
3章→ アイドルとオタクの関係(最近話題の「推し、燃ゆ」で触れられていた「距離があるから優しくなれる」と関係してるかな、違うかも)
4章→ アイドルが私たちに与えるもの、永遠の課題「新規v.s古株」

といった感じです。

読みやすくするため、何回かに分けて投稿します。

今回は1章を。

第1章 はじめに

~アイドルオタク好きがアイドルを考える~

アイドルが生きがいだという人々がいる。
〈推し〉によって体調が良くなったり悪くなったり、日々の生活を頑張れたり頑張れなかったり・・・。

私は「まだ」アイドルオタクではない、と思う。小学生の頃、クラスのほとんどが嵐を好きで、母親やその友達に連れられライブに行ったり、曲を聴いたりはしたが、今振り返るとオタクとまではいえないような気がする。

何かにはまるのが怖い。他人が自分の生活の中心に居座るのが怖い。自分を委ねてしまうのが怖い。

だからアイドルオタクが心底羨ましい。
そんな理由からアイドルオタクがオタクをしているところを見たり聞いたりするのが好きだった。

人はなぜアイドルを応援するのだろうか?
結論から言うと、私は
アイドルの応援 = この生きづらい世の中における生存戦略

なのではないかと考えている。

まず、アイドルとはなにか、という大きなテーマを考えてみる。
昭和を代表する作詞家の阿久悠は、自らを「アイドルとは、エルビス・プレスリーであり、長嶋茂雄であり、人気、実力のほかに説明し難いカリスマ性を備えてくれる人がそう呼ばれる、と信じていた世代」(西 2017: 15)の一人だという。
メディア論学者の西兼志はこの発言を「一九五〇年代から六〇年代にかけて、『アイドル』がどのようにとらえられているかについての証言」(西 2017: 15)としているが、これは現在のアイドルにもあてはまる定義とはいえないだろう。
「いま会えるアイドル」というキャッチコピーや、頻繁に行われる握手会、SNSを活用した、ファンに対し親近感を覚えさせるようなアプローチ、「地下アイドル」という一見矛盾しているような言葉まで生まれる現代では、圧倒的なカリスマ性だけでアイドルを語ることは難しいと思う。

私は<アイドル>というものを広義に捉えている。たとえアイドルを名乗っていなくても、応援する人によって、誰でも(人でなくても)アイドルになり得ると。

詳しくは5章で説明しようと考えているが、この論文において「アイドル」「アイドルオタク」をはじめに定義づけることは避けたい。なぜならその二つの概念は、当論文のテーマを考えていく中ではっきりしていくものだと考えているからだ。

また、この論文では特に男性アイドルを応援する女性に焦点を当てたいと考えている。その理由は筆者がアイドルの応援という行為に興味を持ったきっかけが、男性アイドルを応援する女性たちが、独特なルールに基づきアイドルを出待ちしている姿だったためだ。また筆者自身が女であることもあり、女性の生きづらさについて日頃よく考えるということから、分析対象として興味深いと考え、対象を絞ることとした(本当は男女の区別無く考えたかったのですが、時間などの制約がある卒論では、自分の力量では無理だと諦めました。言い訳です、すみません)。

アイドルを応援するとはどういった意味を持っているのか。応援することで彼女たちは何を得ているのか。彼女たちが捉えている「アイドル性」とはなんなのか。西はアイドルを論じる難しさについて、

〈アイドル〉のような現在進行形の対象を研究者が論じることには大きな危険が待ち受けています。・・・・・・研究の場合、対象と距離を取る必要がありますが、その対象にどんどん惹かれ、巻き込まれてしまうこともあります。・・・・・・逆にあまりに距離を取りすぎ、「外」から、あるいは、「上」からの議論をするだけなら、〈アイドル〉のように、本質的にとらえがたい対象を・・・・・・取り上げる必要もない (西 2017: 87)

と語る。このような困難を理解した上で、同じ女性という枠組みには存在するものの、アイドルファンではないからこそできる分析が行えたらと考えている。

さて、アイドルは既にさまざまな見地から論じられている。日本文化特有の、未熟さへの愛情という文脈でアイドルが捉えられていることさえある。文化人類学者のカキン・オクサナは、欧米では「才能・能力・言動」が若い歌手の魅力であるのに対し、日本のアイドルファンは「アイドルの『未熟さ』を愛で」(カキン 2017: 69)ており、「アイドルの育成に自発的かつ積極的に参加し、『未熟さ』を愛でる対象として、母親目線で愛でる。のちにアイドルが『成熟』してしまったら、ファンはそのアイドルの応援をやめ、より『未熟な』若手アイドルの応援に乗り換え、育成の過程をまた一から繰り返すのである」(カキン 2019: 72)と分析している。しかし、筆者はアイドルの未熟性ばかりが注目されるこの見解に疑問を呈したい。たしかに江戸時代から美しい少年への志向や、未熟なものが育っていく様子を見守る娯楽が存在し、楽しまれていたことは事実だ。しかしアイドルの魅力の本質は本当にそこにあるのだろうか?
実際にアイドルを応援している人々に話を聴くと、〈推し〉のストイックな仕事観といったプロフェッショナルな部分、メンバー同士の関係性、ダンススキルなど、推す理由は多様で、応援方法に関しても、自宅で楽しめるコンテンツを好む人、イラストや文章を発信する人、オタクコミュニティを楽しむ人などさまざまだ。筆者は応援している女性の観察からアイドルを捉えなおすことによって、アイドルの魅力・定義を再構築したいと考えている。

まず、現代社会を生きる女性たちはどのような環境におかれ、何に苦しめられているのか、ということに焦点を当てる。そして、そこからどのような救いを求めてアイドルを応援しているのかを考える。筆者は、〈生きづらさ〉とは、あらゆるものとの付き合い方、つまり〈関係性〉に起因するのではないかと考えている。
そのため
2章では、相手との関係性における生きづらさ、
3章では否応なしに置かれる社会との関係性における生きづらさ、
4章では帰属するコミュニティとの関係性における生きづらさ、
と大まかに3つの視点で女性とアイドルについて論じていく。こうしてアイドルを応援する動機について、筆者なりの定義をしたいと考えている。それがアイドルの魅力や定義、アイドルオタクとはなんなのかという問いの答えになるだろう。

 

ここまで読んでくださりありがとうございます!

ぜひ続きも読んでいただけたらうれしいです!