ほめられたことをもう一度できない

アイドルとアイドルオタクについて

私たちはアイドルに何を見て、何を期待しているのか

今回は2章部分です。前回に比べかなり社会学の文献を参照するため少し読みづらくなっております。編集しましたが、だるいな~と思う部分は読み飛ばしていただいて、好きなところだけ読んでいただけたらと思います。

2. 相手との関係性による生きづらさ

 

2-1. 現代人の承認ゲーム

社会学者のウルリッヒ・ベックによれば、近代社会、特に後期近代以降の社会では、個人は伝統的な共同体や紐帯から解き放たれ、より多くの自己選択の機会を得るようになった。その一方で、個人は自己選択の帰結としての多大なリスクにさらされる(ベック 1986=1998, 2011)。

この『個人化』の議論は第二次大戦後の西ドイツを中心としたヨーロッパの資本主義社会を対象に論じられたが、社会学者の中森弘樹は、現代においても示唆的であると述べる。それは「既存の紐帯からの解放がなされる『第一の近代』と、『第一の近代』からの解放の後に形成された家族や中間集団にまで『個人化』の波が及ぶ『第二の近代』を区別し、現代を『第二の近代』として位置づけているという点」(中森 2017: 88)においてである。

中森は失踪の歴史をたどりながら、「高齢者所在不明問題」が高齢者の子どもたちの選択(責任)のようにメディアに取り上げられたことを、「家族関係に『第二の個人化』(『第二の近代』に対応する『個人化』)が波及し、人びとが家族の紐帯から解放されたことで、家族と関わるかどうかの選択が家族ではなく個人に帰せられるようになった」(中森 2017: 92)と分析する。また同時に「『個人化』によって達成された自由ではなく、むしろ排除への非難」という風潮が広がり、「ここにおいて、人間関係の自由の高まりが、排除のリスクへと転化したことがはっきりと見てとれる」(中森 2017: 92)と述べる。どんな人と出会い、関係を築くかは個人の自由になったが、その関係を絶つことは大きな責任を伴う。それは結局、関係の維持に大きなリスクとストレスをはらんでいるということだ。

土井隆義は現代人の人間関係を「優しい関係」と呼び、もしそれぞれの立場に相克やズレがあったとしても、あえてそれを顕在化させないように営まれる繊細な人間関係だと説明する。また、優しい関係の問題点としてお互いの利害のあからさまな衝突がもたらすような重さではなく、むしろ過剰なほど配慮のし合いを必要とするという点を挙げた。お互いの相違点がどこにあるのかという確認を避けるような関係は、相手の顔色を伺いながら自分の行為を決定していかなければならない。すこしでもズレが生じれば、修復不可能な状態に達してしまうという。そしてその閉鎖性から他の人間関係へ乗り換えることも、一人で生きていくことも困難だとも述べる(土井 2012)。

日本の心理学、哲学の分野における著作家である山竹伸二は、このような関係について「仲間であることを確認(承認)しあうゲーム」(山竹 2011: 10-12)と呼ぶ。そしてその「承認」とは「価値のある行為によって認められるわけでも、愛情や共感によって認め合うわけでもない。それは場の空気に左右される中身の無い承認」だとした。このようなゲームにある関係は本当の自分を偽って他者に同調するために(「自分の思うままに行動したい、感じたままに発言したい、という思いは『本音を出したら嫌われるかもしれない』という不安によって、ある程度まで我慢せざるを得なくなる。」)、「自己不全感」がつきまとい、さらに少しでも「承認」関係が崩れると「自己否定的感情に襲われ、絶望的な気持ちになるのである」(山竹 2011:10-12)。

「優しい関係」、「承認ゲーム」が表す関係性からは、周りからの承認を失うことへの恐怖から本音を伝えられず、少しのミスによって承認関係が崩れると自らの存在価値を失ったように感じてしまう現代人の姿が分かる。絶つことへの責任だけでなく、自分の存在を承認してもらうためにも、現代人は関係性の維持にかなり気を遣い、自分を押し殺すなど、ありのままの自分で関係を築くことは難しいと考えていることが分かる。

 

2-2. 愛と応答責任


 社会学者の二クラス・ルーマンは、「愛されることは、他者によって、比類のない唯一の存在として扱われることを意味する」(バウマン・メイ 2016: 187)と語る。「承認ゲーム」のような、常にひやひやしながら危ない橋を渡る必要のある関係性とは反対の位置にあるのが、愛によって結ばれる関係ではないだろうか。

愛されるものは自分自身や自分の要求についてのイメージを正当化するのに、普遍的な規則に訴える必要がないということがそれである。それはまた、愛する者が、相手の独立、自己決定権、自己選択権を容認し確認していることを意味する。この場合、愛する者は、相手が断固としてこう表明す
るのを認めているのと同じである。『これが、わたしです。わたしのすることです・わたしのいるところです。』(バウマン・メイ 2017: 187)

という通り、自分が自分のままで受け入れられ、他のものさしによって測られることのない、素晴らしい関係である。しかし愛はこの愛の特性上、多くの矛盾を孕んでいるため、維持が困難だ。

「『愛される』ことはまた、『理解される』ことを意味する」(バウマン・メイ 2017: 187)。しかし、「愛の関係をとりわけ脆弱なものにするのは、互酬性の要求である。もし、わたしたちが愛を求めるならば、相手も返礼―愛をもって応えること―を求める」のは容易に想像できるだろう。「双方が、相手の経験や期待を、修正や妥協を求めることなく、そのまま受け入れることはありそうもない。関係の継続のために、一方あるいは双方が道を譲らなければならない。しかし『自分らしさ』を放棄することは、愛の目的や愛の欲求―愛が満たすことを期待される欲求―を無視するものである」(バウマン・メイ 2017: 189)。ここには、「承認」を得る為にびくびくすることなく、ありのままの自分でいたいという望みが果たされる関係性を維持するためには、自分を曲げなければならないという矛盾がある。

つまり、「愛情はその性質がゆえに、必ずしも関係を存続させたいという意思、すなわち『努力協定』としての『コミットメント』の維持には帰結しない」(中森 2017: 36)のである。

「幸福な結末までの道はいばらの道で、多くの忍耐と理解なくして無傷で切り抜けることはできない。うまくやるカップルも多いが、理想と現実の乖離は往々にして欲求不満や対立関係をもたらす。それが顕在化して、カップルが離婚や別離にいたったり、カップル内でDV問題が生じたりもする」(バウマン・メイ 2017: 189)。空虚な「承認ゲーム」から脱した関係性を築けたと思えば、その維持には多大なリスクと負担が必要になる。現代を生きる人々には、このような生きづらさが存在しているといえる。

 

2-3. アイドルの持つ「純粋な関係」の可能性


2-3-1. 関係性からみるジャニーズアイドルの変遷


2-1.2-2で述べたような生きづらさを感じている現代女性は、自分では達成し難い〈特別な関係性〉をアイドルに投影し救われている部分があるのではないかと考える。

書店に並ぶアイドル誌の表紙を見ていると、「仲よし」「ベストコンビ大賞」「わちゃわちゃ座談会」などという文字が目に付いた。SNSではアイドル同士の不仲説がよく話題になり、それが根も葉もない噂であってもグループの人気を大きく左右することがある。またSNS上には、自分がメンバーの一員となって活動する妄想を繰り広げているファンもいる。現在のファンは「対自分」の王子様的な恋愛対象にあたるアイドルとしてだけでなく、所属するグループの中での関係も重視しているようである。それは「箱推し」とよばれるグループ全員のわちゃわちゃを含めて好き、といったファンや「DD(誰でも大好き)」といったファン用語にもあらわれているだろう。

ところで、このような「わちゃわちゃ」は昔から人気の重要な要素だったのだろうか?ここでは男性アイドルを考える上で避けては通れないジャニーズ事務所の歴史から考えていく。ジャニーズ事務所の所属タレントで80年代前半に活躍していたのは「たのきんトリオ」である。しかしトリオという名がついているものの、田原俊彦野村義男、近藤雅彦それぞれの個人の活動がメインであった。その後1982年に「シブがき隊」がデビューし、3年後には「少年隊」がレコードデビューする。続いて90年代前半まで圧倒的な人気を誇ったのが1987年デビューの「光GENJI」である。しかし彼らもメンバー同士の絆のようなものがフューチャーされることはなく、個人のタレントとしての魅力や、ダンス・歌のスキルなどによって評価されていたようだ。そして「光GENJI」解散後、「SMAP」がデビューする。彼らは今までのスター性の強いアイドル像ではなく、バラエティにも果敢に挑戦し、パフォーマンスする楽曲もクラブミュージックや渋谷系の音楽を意識するなどよりカジュアルなアイドル像をつくったとされる。また、「5スマ」「群れスマ」「わちゃスマ」などといった、グループ内での仲のよさをあらわすファン用語や、「2TOP(中居正広木村拓哉)」「しんつよ(香取慎吾・草彅剛)」などグループ内の特定の2~3人に名前をつける現象も生まれた(筆者が調べた中ではSMAP以前にグループ内にコンビ名が存在するジャニーズグループは見受けられなかった)。このことから、SMAPのファンたちがメンバー同士の絆をグループの魅力として強く重視していることが分かる(メンバーのひとりである森且行が脱退したのもひとつの要素と考えられる)。このような傾向がさらに色濃く強調されているのが、現在ジャニーズ事務所で一番の人気を誇っているといわれている「嵐」である。元SMAPの中居正弘が2015 年 3 月 30 日放送フジテレビ「SMAPxSMAP」スペシャルの中で「僕の一方的な思いかもしれないですけど,お互いに干渉をせずにやってるかな。仲良しこよしの,楽しくってしょうがないっていうチームとはちょっと違うので。でも,そこがここまでやってこられた要因だと思います」と語ったように、ある程度距離感を保った関係性であったSMAPに対し、嵐はメンバー同士の関係性にいい意味であまり緊張感を感じられず、プライベート的な仲のよさが読み取れて癒される、というように評価されているようだ。

 

2-3-2. アイドルに投影される「純粋な関係」


社会学者の西原麻里は、2012年4月号から2013年3月号までの芸能雑誌『Myojo』を対象に、ジャニーズタレントが登場する記事の内容分析をおこない、「異性愛言説よりも、他のジャニーズタレントや同性の俳優、プライベートな同性の友人などと築く友愛の言説のほうが登場頻度が高い」(西原 2017: 96)と述べた。また、「まるでBLのように読める、男性同士の恋愛として解釈が可能な表現が使われていた」(西原 2017: 96)という。さらに「ジャニーズタレントの〈絆〉の描かれ方をみてみると、」「ジャニーズタレントを鑑賞し楽しむ女性のまなざし」(西原 2017: 101)の存在が色濃く反映されているとも述べた。

筆者は現代女性がアイドルに投影しているこのような関係性は、ギデンズが提唱した純粋な関係と近いものがあるのではないかと考える。ギデンズによると、「『純粋な関係』とは、『外的な基準がそこでは解消してしまうような関係』であり、『伝統的文脈での緊密な個人的つながりと比べて、純粋な関係性は社会的・経済的生活といった外的条件にはつなぎ止められていない―それはいわば自由に浮遊している』」(中森 2017: 26)ような関係である。

「『純粋な関係』において外的条件の代わりに」重要になるのが『コミットメント(commitment)』」だ。「『コミットメント』は、『自己投入』や『自発的な関わり合い』の意味」で、「『ロマンティック・ラブ』や、友人関係は『コミットメント』のあり方の一つ」(中森 2017: 26)であるという。また、「『コミットメント』に基づく関係は、パートナーに与えるもののためだけに求められ、その唯一の見返りは関係性事態に内在するものとなる。すなわち『純粋な関係』においてはその関係自体が目的なのであり、それゆえにパートナー間で何か問題が起これば、関係の尊属が脅かされることになってしまう」(中森 2017: 27)という特徴がある。ギデンズは「友人関係は『純粋な関係』の特徴―『それが他者との緊密な接触から得られる情緒的満足のゆえに始められ、そうであるかぎりで存続する』-をよりはっきりとさせるもの」だと捉えており、それは「友人が『ある人が関係それ自体による見返り以外によっては促されないような関係を持っている誰か』として定義される」(中森 2017: 28)と考えていたからだった。さらにギデンズによれば、「親子関係およびそれより広い血縁関係は、純粋な関係性の射程からは部分的に離れたところに留まりつづける」という。「親子関係や血縁関係は、生物学的なつながりという外的な基準に拘束され続けるからである」。「しかしそれらも、脱埋め込み化メカニズムの影響を受けることで、『純粋な関係』の性質を帯びつつある」とギデンズは言う。「たとえば、血縁関係は伝統的義務や拘束が剥ぎ取られることで、形骸化することがある」(中森 2017: 28)とも述べる。つまり純粋な関係とは特定の関係に限られずに、友情関係・恋愛関係・家族関係などへ援用できる概念ということだ。以下は社会学者の山田真茂留の定義である。

①社会的・経済的生活の外的諸条件に依存しない(因習にとらわれない)
②関与者たちの関心のためにのみ維持される(社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生み出しているとみなす限りにおいて関係を続けていく)
③反省的でオープンな組織化がなされる(自己と他者のモニタリングが必要不可欠、他者の特質を
知り、自己開示することが重要)
④外的な絆ではなくコミットメントが重要
⑤親密性に焦点が当てられる(しかし共依存嗜癖的きずなではない)(親密な関係性とは、平等対人関係の下で自己や他人との気持ちの通じ合いのこと)
⑥相互に信頼を獲得していくことが肝心(外部の支えがないため)
アイデンティティは親密性の発展のなかで彫琢される(再帰的自己自覚的契機、つまり自分の行動の選択の自由により自己のアイデンティティを見いだす)(山田 2017:11)

これらの条件に、ジャニーズタレントがどうあてはまっているのか(どう投影されているのか)を見ていく。

まず、①の社会的・経済的生活の外的諸条件に依存しないという点だが、ジャニーズ事務所のアイドルを例に取ると、グループとして活動している彼らはもちろん家族ではない。デビューのエピソードとしてよく語られるのは、偶然集められ突然デビューが決まった、というものである。そしてある程度活動して月日が経つと、このメンバーでなければやってこられなかった、あるいはこれから先やっていけないだろう、という発言や演出が自明視されていく(もちろん本心でそう思っていることもあるだろう)。彼らは、家族や夫婦といった制度化された関係ではなく「SMAP」、「嵐」でしかありえない。これは②の「関与者の関心のためにのみ存在する。」にも関係してくるが、互いに一緒に活動をしたくてそばにいる、互いを尊敬しあい高めあっていく相互志向関係においても、一緒に有名になりたい、アイドルとしてもっと高みを目指したいという共同志向関係においても、どちらにせよこのメンバーでなければならないと全員が認識している上で活動しているという姿が投影されているのだ。③~⑦については、ジャニーズ事務所の大きな特徴であるジャニーズJr(以下Jrと表記)という段階が大きな役割を果たしている。彼らはCDデビューする前段階として、Jrとして先輩アイドルのバックダンサーを務めたり、Jr同士で期間限定のユニットを組んだり、時にはJrのみで舞台をこなすこともある。その過程で、お互いをよく知り、絆を深めているはずだ、という歴史的蓄積の感覚がファンに生まれるのだ。そしてさまざまなタイプのいるJrの中で揉まれるうちに、周りとキャラ被りしないような自分のキャラクターを見つける過程でアイデンティティが形成される。またJr時代があるからこそ、応援するアイドルと他グループのメンバー(あるいはまだデビューしていないJr)との関係もファンは楽しむことが出来る。グループという枠組みがないため、さらに純粋な関係と考えるファンもいるだろう。
また最近アイドルのオーディション番組が流行しているのは興味深い。NiziUを輩出したNiziProjectやJO1を輩出したPRODUCE 101 JAPANの人気は記憶に新しいだろう。これらはまさに「純粋な関係」が生まれていく過程を見守る番組である。

 

2-3-3. 純粋な関係の不完全性とその矛盾


我々が「純粋な関係」を維持する上で問題となるのはなんだろうか。中森は関係維持に不可欠なコミットメントについて、応答責任という概念を用いて説明する。このような関係性には「たとえどのような事情があっても他者に応答しなければならないという、根源的責任の倫理」(中森 2017: 240)がついて回るとし、「私たちは、責任の倫理の要請から、配慮と応答をし合うことで『親密な関係』を維持する」(中森 2017: 254)のである。これがあまりにも当事者にとって負担になると、自殺、つまり「みずからの死をもって、その責任に対して応答することが不可能であるということを提示」し、「自己にとっては大きすぎる責任の追及を終了させる」(中森 2017: 302)と分析する。

社会学者のリチャード・セネットは、「破壊的ゲマインシャフト」という言葉を用いて「両当事者が過度に親密性intimacyの権利を追求する」(バウマン・メイ 2017: 190)ことで生まれる困難を呈示する。

そこでは自分自身を相手にさらけだし、自分の精神生活に関する最も私的な真実も、うそ偽りなく、すべて相手と分かち合うことになる。つまりは相手をひどく動揺させる情報であっても、何事も包み隠さず相手に伝えることがそこでの流儀となる。結果として、相手は途方もない重荷を両肩に背負わされる。相手は必ずしも興味のもてない事柄に同意するとともに、応答に際しても自らも誠実かつ正直であることを求められる。(バウマン・メイ 2017: 190)

このように、「純粋な関係」のような親密な関係を維持するためには、自分にも相手にも、多大な労力と負担が必要になるのだ。日常では手に入らない憧れの関係だからこそ、アイドルに投影して楽しむのである。

しかし、アイドルが純粋な「純粋な関係」を築いている訳ではない。それらはファンが理想的な関係を投影しているだけであって、100%の事実ではないからである。そもそもグループ結成におけるメンバー選出の時点で、事務所の社長や役員の意向、またJr時代の人気順など様々な情報が加味され、考えられている。関係のスタートは自己志向の結果ではなく、きわめて受動的なものである。さらにはJr時代のユニットの人気が高すぎて、CDデビューしたグループに反対的な意見があがることもあるのだ。そして大前提として彼らは金銭をうけとり、仕事としてアイドルをしている。もちろんメンバー同士の相性や切磋琢磨する過程も大事だが、食べていく為にグループとして活動しているのである。脱退してソロで活動するには大きなリスクが伴う。グループでいればCD売り上げも、知名度の向上も一人でいるより圧倒的に期待できるからだ。また、そのようなグループの中でも人気格差があるため平等な関係とは言い難い部分もあるだろう。

しかし、これらの側面はアイドルを応援する女性たちにとって、大きな問題ではない。それは応援している女性達がこのような商業的な一面を理解していないという意味ではなく、彼女たちはアイドルの全てを受け入れる必要はないからである。見たいところだけ見て楽しむ、という行為が許されているのがアイドルだからである。このことについては、次章のまなざしへの積極的な参加の部分で詳しく説明していく。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

次回の3章は一番力をかけて書いた部分なので、ぜひ読んでほしいです。

ご意見、感想もお待ちしています。孫引きについては多めに見てください。すみません。