ほめられたことをもう一度できない

アイドルとアイドルオタクについて

オタク・アイデンティティ コミュニティの地獄~新規v.s古株~

今回はオタクとアイデンティティについてです。永遠の課題、新規v.s古株についても触れています。前回同様だるい~ってところは読み飛ばしてもらって構いません。それではよろしくお願いします!

4. 帰属するコミュニティとの関係性における生きづらさ

 

4-1.  何者かでいなければならない苦しみ


4章のタイトルである〈帰属するコミュニティとの関係性における生きづらさ〉には2つの要素がある。

1つ目は自己を証明・呈示するためにコミュニティに帰属しなければという強迫観念である。2つ目はコミュニティに入った後の身の置き方である。まずは1つ目から説明していく。

望むとおりに理解されることもとても難しいが、自分を提示していくという行為もまた困難がある。社会学者の千田有紀は女性のアイデンティティについて、「女は女であることだけでは認められず、『どのような女か』ということが問われる」(千田 2005: 279)と考察している。そして現代社会は「どのような女か」だけでなく、「どのような人間であるか」も強く問われている。

社会学者のギデンズは、「現代社会において自己は再帰的プロジェクトとなった」とし、「近代社会では性別や家系、身分といった外的な基準が効力をもたなくなる。このために私たちはたえず『何者なのか』と問われるようになり、」「私たちは、たえず自分の生活史を振り返り、それを再構成し、たえまなく自己物語を物語り続けなければならないのである」(長谷川・浜・藤村・町村 2019: 70)と、述べた。

つまり現代人は、自分と向き合いながら、常に「何者であるか」ということを呈示し続けることが求められているということだ。

社会学者のジョージ・ハーバート・ミードは自己について、「その発生においても、その作動においても、他者のコミュニケーションを前提としている」(長谷川・浜・藤村・町村 2019: 55)とし、浅野智彦は「自己は、自己が自分自身について語る物語をとおして産み出され」、「自己物語もまた相互行為のなかで他者に向って呈示され、他者と共同で維持されなければならないのである」(長谷川・浜・藤村・町村 2019: 69)と述べる。

これらの考え方から、自己を見つめることも、(「自己物語」を編んで)自己呈示をすることも、他者との関係性の中で可能になるといえる。

百万円と苦虫女』という映画には、「自分探しですか?-逆です。自分から逃げてるんです。」という台詞がある。百万円が貯まると別の街に移動することで、他者との深い関係構築を避けてきた主人公は、「自分から逃げている」と語る。まさに他者との関係が自身のアイデンティティを形成していることを体現しており、〈何者かでなくてはならない〉という自己の再帰的プロジェクトを抱える現代人の辛さを描いた作品だといえるだろう。

 

4-2. アイドルが可能にする<理想のアイデンティティ形成>


3章で説明した〈アイドルの物語〉は、女性が安心してまなざすことのできる場を提供するという役割だけでなく、アイデンティティを形成する場を提供するという役割も持つ。これは、望まない役割期待と、義務化した自己呈示の苦しみ、「何者かでいなければならない」苦しみを解消する役割を担っているといえる。

先ほどアイドルの応援を辞める2つの傾向があると述べたが、1つ目の傾向とは、<自分の望む応援をできなくなったから、応援を辞める>というものである。

アイドルを応援している人々の中には「担降りブログ」というものを書く文化がある。「担降りブログ」とは、担当(特に力を入れて応援している)アイドルの応援を辞める際に、自分がどのように応援してきたか、なぜ辞めることを決意したのかなどを綴った文章である。筆者がこのような「担降りブログ」をいくつか観察する中で、この傾向を認めることができた。

つまり、アイドルを応援している人々には、それぞれ自分の理想の応援スタンスというものがある。そしてその応援を通し、理想のアイデンティティを獲得しているのではないか。

まずはホストクラブに通う女性についての社会学者の志田雅美の分析を参照する。『1 億 5 千万の恋 ホストに恋した 4 年の日々』を分析した結果、ホストに「ハマッた」なおの独白には「①現状への不満・既存の価値観への反抗という要素②アイデンティティへの不安という要素③理想の女性性の追求という要素がある」(志田 2017: 257)とした。③の観点では、現代女性は「男性中心主義社会における女である自分の性的価値はどれくらいあるのか」(志田 2017: 261)ということが問われていると述べ、「性規範からの『逸脱』と男性中心主義社会からの『逸脱』を犯している場」(志田 2017: 259)であるホストクラブでは、女性が「性的主体」であるために、「自らが求める『女』を追及できる」(志田 2017: 262)としている。

たとえば「なお」は見返りを求めずホストに大金を貢ぎ続けることで「『聖女』としての理想の女性的アイデンティティを実現するために」(志田 2017: 263)ホストを「消費」していると見ることができる。さらに志田は元ホストのインタビューを通して、「ホストクラブという場において、客とホストはアイデンティティを売買している(女性の主体的に求める女性的アイデンティティと、それを叶えるためのホストのアイデンティティの放棄)」(志田 2017: 267)と述べた。

また、「なお」と担当ホストの関係は、「俺が店出してやるからお前はもう仕事やめろよ」というホストの発言によって終了した。「もし、客である『なお』が、ホストである『翼』との愛の成就を求めているならば、自らのために店を出すという『翼』の行動は『責任を取る』という行動の表れであり、二人の"ゴール"で」あるはずなのにも関わらず、「なお」は別れを決意したという。しかし「「聖女らしさ」や「尽くす女」像を自らのアイデンティティとして消費するためにホストクラブに通っていたのであり、翼とのゴールインを目的として金銭を支払っていたのではないと結論づけるならば、」(志田 2017: 263)不思議なことではない。

ホストクラブとアイドルは異なるが、「男が買う側で女が売る側」という性規範から逸脱している点、男性に価値付けられる男性中心主義から逸脱している点は共通しているのではないだろうか。ホストもアイドルも、「どのような女か」を強要しない。相手がなにも期待しないからこそ、自分のなりたい自分でいられるのである。

これは社会学者のスタンリー・コーエンとローリー・テイラーのいう「純粋な離脱」、つまり新たな資源を得て自分のアイデンティティを取り戻すことができる領域へ逃亡することと述べたような、一種の逃避行動であるといえる。(コーエン・テイラー 1976=1984)そのような逃避の場、自身の理想のアイデンティティを許容する場を提供しているのがアイドルなのだ。

アイドルを応援することで得られるアイデンティティは多種多様であるが、筆者が特に見かけることが多いと感じるいくつかのパターンを例として挙げていく。

1つ目は、努力がすべて報われるという自分だ。日常的な世界では、自分の努力がすべて報われるということはほぼないと言っていい。しかしアイドルを応援する中では、お金を使えば使うほど、ライブや握手会に足を運べば運ぶほど、結果が目に見えて表れることが多い。その結果とは、自分がアイドルに名前を覚えてもらうだとか、アイドルの知名度が上がっていくなどさまざまな形がある。先述した『くたばれ地下アイドル』という小説の先の見えない自分の将来を思うよりも、これから伸びしろのあるアイドルへ投資するほうが楽しいという内容からも、そのようなパトロンというアイデンティティを達成することもできるということが分かる。

2つ目は、志田のいう聖母的な自分だ。バウマンは、贈与について「贈与によって、送り手は、道徳的な満足という報酬を得る」とし、「その報酬は、送り手にとらえどころはないが深い喜びをもたらす」と述べる。また、贈与という行為は「私心を捨て、他者のために自分を犠牲にする好意である。交換や利益追求の文脈とはまったく対照的に、どれだけ自分を犠牲にして苦痛を味わうか、結果としてどれだけ損失をこうむるかに比例して道徳的な満足を増す」(バウマン・メイ 2016:176)と分析する。筆者は聖母的な献身の魅力とはここにあるのではないかと考える。

しかし日常的な関係で、自分の満足するまで「贈与」を行うとどうなるだろうか。贈与された相手は当然「互酬性」を意識せざるを得ないだろう。つまりもらった分だけ自分も返さなければという気持ちになるのが自然な流れだ。自分が返せる範囲の贈与ならばいいが、その範囲を超えた場合、かなりの負担を強いられることになる。しかし、贈与される側とする側の気持ちは比例しない。

バウマンは「最も傷つきにくいのは、贈与としての愛である。そこには、相手の世界を受け入れ、その世界に身を置いて、内側から理解しようとする用意があり、しかも、その見返りに同じことをしてもらおうとも思わない。そこでは合意も契約も不要である。しかし双方向的に親密性が求められた途端、交渉や妥協は不可避である」(バウマン・メイ 2016:191)と続ける。心ゆくまで贈与をする、というのは相手の負担を考えるとかなり難しいといえる。

対して相手がアイドルやホストであれば、「どれだけ自分を犠牲にして苦痛を味わ」っても、個人の自由であり、負担を強いることもない。なぜなら彼らはそのようなアイデンティティをも受け入れるからである。これはバウマンとメイの言う「愛の実現は、かくも困難で大きな犠牲をともなうため、愛の代用品が求められても不思議ではない。たとえば、だれかが見返りを要求することなしに、愛の機能を発揮する場合がそれである」(バウマン・メイ 2016:191)という考えに近い。彼らは、「精神分析、カウンセリング、結婚生活相談などが驚くほど成功を収め、人気を博している理由は」愛の代用品に多大な需要があるからだと語る。アイドルには、「自分をさらけ出したり、心の奥底に感情を他人に知らせたり、待ちに待ったアイデンティティの承認を得たりする権利が、一定のサーヴィス料金を支払うだけで満た」(バウマン・メイ 2016:191)すことができる、愛の代用品という側面があるのだ。

3つ目は、相手を志向している自分だ。アイドルを応援している人々が使う言葉に〈担タレ〉という言葉がある。これは担当タレントの略で、応援している人が、応援対象のアイドルやタレントに似てくるという現象のことだ。似てくる、というのは性格や外見などさまざまな要素について言及される。

他にもYoutubeなどの動画サイトには、応援しているアイドル別のファンの服装・行動の〈あるある動画〉が数多く公開されている。このようなことから分かるのは、あるアイドルを志向することが、その人にとって十分アイデンティティになり得るということだ。

社会学だけでなく、心理学の分野などでも用いられている「社会的アイデンティティ」という概念は、所属している社会集団やカテゴリーによって確認する自己認識のことである。つまり自己と所属集団の同一視に近いものだ。特定のアイドルを応援する人々にファンネームが設けられるという現象は、この概念に通じるものがあると考える。元々はファン間で非公式に、自称として呼んでいたものが多かったが、最近では公式にアイドル側から設定されることも少なくない。アイドルを応援している人に話を聴くと、やはりファンネームがついている方が団結力や帰属感が強まり、そのアイドルを応援している自分、という自覚が強くなるそうだ。

しかし、アイデンティティを形成する場だからこそ、その物語内のアイデンティティが揺らいだとき、人々は大きな不安に駆られる。これが2つ目の生きづらさの要素である。

大泉は、「オタク」という言葉に従来のネガティブなイメージが払拭されつつあり、「オタク的な人」が増えてきたことについて、「現在のようにオタクと非オタクの間の敷居が低くなってくると、自分がオタクであるという自覚や自己規定だけでは自我が持たなくなる。それだけでは他者との間の差別化ができにくくなっているから」という現状を分析し、「そこで、蒐集、創作、評論など、オタクとしての活動にさらに拍車がかかっていくことになる」(大泉 2017: 166)と述べる。

たしかにアイドルを応援する人々は、イラストや文章、凝ったSNS投稿、グッズ作り、写真加工、動画作成など、さまざまな方法で「推し」への思いを表現している人が多い。他者との差別化を図るため、自分だけの表現へとベクトルが向いていく現象は大変興味深い。

アイデンティティを呈示していく上で、自分だけの表現を見つけられればよいが、もちろんそう上手くはいかないこともあるだろう。部落差別を研究している笹川俊春は、

境界があいまいになることで、同和地区に居住しているかいないかに関わらず、すべての人々が「部落出身者と見なされる可能性」を持つことになるという逆説的な状況が生じた。それはあくまでも「見なされる可能性」に過ぎないにもかかわらず、差別されたくないという意識に囚われてしまうと、「部落出身ではない自分」というアイデンティティ固執することになる。こうして部落出身者という他者を作り出し、その他者を排除することによって自己のアイデンティティを確定するという差別が生起する(笹川 2009: 1)

と分析している。アイドルを応援してアイデンティティを得ている人々は、それが危ういものとなったとき、他者を排除することによって、なんとしでも奪われまいとする。この心理がいわゆる<古株と新規>のようなオタク内差別、オタク間のヒエラルキーを生むのではないだろうか。

アイドル雑誌『明星』を研究している田島悠来によると、『明星』の読者投稿欄にファンクラブの情報が掲載されるようになったのは70年代で、そのころからファンの間に力関係が発生したそうだ。つまり、「『ファンクラブに参加しているもの=本当のファン=上』『ファンクラブに参加していない者=下』という見方があり、ファン間での一種のヒエラルキーの形成がなされ」(田島 2017: 182)た。そして「本当のファンとはどうあるべきか」という議論が盛り上がっていく。

「本当のファンならば~すべきである」という言説が度々登場し、これも議論の対象となることで、読者側の態度にも注意が払われ、「ファン」であることの解釈がなされていく。テレビ番組収録時の応援法やコンサート先でのマナー・ルールを守ることの大切さも説かれた。特定の意見を絶対視するのではなく、お互いの在り方を見つめあい相対化する姿勢が見受けられたわけだが、これは、ファンの多様な態度がある程度許容されていた、換言すれば、「ファン」が社会化する途上にあったことを示していよう。(田島 2017: 325)

社会学者のノルベルト・エリアスは、文明化の原動力について、文明化されたふるまいによって上級階級である貴族が市民階級との差異化をはかるなど、階層間の差異化のメカニズムが作用していると述べている。そして市民階級がそのふるまいを真似することで広範囲に文明化が進むとも言っている(奥村隆 2003)。

これを田島のいう「ファン」の動きになぞらえて説明すると、アイドルを応援する人々の中に「オタク的な人」が多く見られるようになったことで、周りとの差異化を図るため<本当のオタク>とはなんなのかを追求し、そのふるまいを周囲の人々が真似、さらに差異化を図るために新たなルールが定められ・・・という動きの繰り返しが行われているのだ。

この動きがあまりに白熱した結果、生きづらさから救済してくれるはずのアイドルの応援が、逆に息苦しさを感じさせてしまうこともある。Twitter上では、

私は何らかのファンであると名乗るのがすごい苦手なんだけど、名乗った時点で努力義務が発生するという強迫観念がでかいんだよな~~~ たとえば「えっかめなしくん(ジャニーズ事務所所属のタレントである亀梨和也)のファンなのにかめらじ(亀梨和也のラジオ番組) リアタイ(リアルタイムで視聴)してないんですか?」とか「えっカツン(亀梨が所属するアイドルグループKAT-TUN)のファンなのにタメ旅(KAT-TUNが出演するTV番組)見てないんですか?」とかそういうやつ・・・・・・ (セリ@jisx0 2020)

というような意見がみられ、2020年10月13日時点で6.8万いいねを集めている。実際にアイドルを応援している人々に話を聞いていると、ファンがファンのあり方を規定しすぎてしまうせいで、アイドルの応援がしづらくなるシチュエーションはよくあることだそうだ。

生きづらさから逃避してきた先で新たな生きづらさに直面してしまうのは矛盾を感じる。しかしコミュニティの境目をはっきりさせようとしたり、コミュニティの中に線を引こうとしてしまうのは、はるか昔から繰り返されてきたことであり、未だ国際問題としても解決していない。この新たな生きづらさへの対処法を考えるのはかなり労力と時間が必要になりそうである。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

ご意見、ご感想お待ちしております。

次回はついにまとめです!よかったら読んでください。