ほめられたことをもう一度できない

アイドルとアイドルオタクについて

アイドルオタクは性的消費者?そろそろ真剣に向き合ってみる。

アイドルとはなにか。アイドルを応援するとはどういうことか。
考え続けた結果、卒論を書きました。
少し編集してみたので、読んでもらえたら嬉しいです。

目次

​1. はじめに
2. 相手との関係性における生きづらさ
2-1. 現代人の承認ゲーム
2-2. 愛と応答責任
2-3. アイドルの持つ「純粋な関係」の可能性
 2-3-1. 関係性からみるジャニーズアイドルの変遷
 2-3-2. アイドルに投影される「純粋な関係」
 2-3-3. 「純粋な関係」の不完全性とその矛盾
3. 否応なしに置かれる社会との関係性における生きづらさ
3-1. 『望むとおりに理解されることの不可能』
3-2. アイドルが可能にする<まなざしからの解放>
3-3. アイドルが可能にする<まなざしへの積極的な参加>
3-4. アイドルの持つ<物語>が果たす役割
4. 帰属するコミュニティとの関係性における生きづらさ
4-1. 何者かでなくてはならない苦しみ 
4-2. アイドルが可能にする<理想のアイデンティティ形成>
5. おわりに

 簡単に言うと、

2章→ 私たちがアイドルへ投影しているもの
3章→ アイドルとオタクの関係(最近話題の「推し、燃ゆ」で触れられていた「距離があるから優しくなれる」と関係してるかな、違うかも)
4章→ アイドルが私たちに与えるもの、永遠の課題「新規v.s古株」

といった感じです。

読みやすくするため、何回かに分けて投稿します。

今回は1章を。

第1章 はじめに

~アイドルオタク好きがアイドルを考える~

アイドルが生きがいだという人々がいる。
〈推し〉によって体調が良くなったり悪くなったり、日々の生活を頑張れたり頑張れなかったり・・・。

私は「まだ」アイドルオタクではない、と思う。小学生の頃、クラスのほとんどが嵐を好きで、母親やその友達に連れられライブに行ったり、曲を聴いたりはしたが、今振り返るとオタクとまではいえないような気がする。

何かにはまるのが怖い。他人が自分の生活の中心に居座るのが怖い。自分を委ねてしまうのが怖い。

だからアイドルオタクが心底羨ましい。
そんな理由からアイドルオタクがオタクをしているところを見たり聞いたりするのが好きだった。

人はなぜアイドルを応援するのだろうか?
結論から言うと、私は
アイドルの応援 = この生きづらい世の中における生存戦略

なのではないかと考えている。

まず、アイドルとはなにか、という大きなテーマを考えてみる。
昭和を代表する作詞家の阿久悠は、自らを「アイドルとは、エルビス・プレスリーであり、長嶋茂雄であり、人気、実力のほかに説明し難いカリスマ性を備えてくれる人がそう呼ばれる、と信じていた世代」(西 2017: 15)の一人だという。
メディア論学者の西兼志はこの発言を「一九五〇年代から六〇年代にかけて、『アイドル』がどのようにとらえられているかについての証言」(西 2017: 15)としているが、これは現在のアイドルにもあてはまる定義とはいえないだろう。
「いま会えるアイドル」というキャッチコピーや、頻繁に行われる握手会、SNSを活用した、ファンに対し親近感を覚えさせるようなアプローチ、「地下アイドル」という一見矛盾しているような言葉まで生まれる現代では、圧倒的なカリスマ性だけでアイドルを語ることは難しいと思う。

私は<アイドル>というものを広義に捉えている。たとえアイドルを名乗っていなくても、応援する人によって、誰でも(人でなくても)アイドルになり得ると。

詳しくは5章で説明しようと考えているが、この論文において「アイドル」「アイドルオタク」をはじめに定義づけることは避けたい。なぜならその二つの概念は、当論文のテーマを考えていく中ではっきりしていくものだと考えているからだ。

また、この論文では特に男性アイドルを応援する女性に焦点を当てたいと考えている。その理由は筆者がアイドルの応援という行為に興味を持ったきっかけが、男性アイドルを応援する女性たちが、独特なルールに基づきアイドルを出待ちしている姿だったためだ。また筆者自身が女であることもあり、女性の生きづらさについて日頃よく考えるということから、分析対象として興味深いと考え、対象を絞ることとした(本当は男女の区別無く考えたかったのですが、時間などの制約がある卒論では、自分の力量では無理だと諦めました。言い訳です、すみません)。

アイドルを応援するとはどういった意味を持っているのか。応援することで彼女たちは何を得ているのか。彼女たちが捉えている「アイドル性」とはなんなのか。西はアイドルを論じる難しさについて、

〈アイドル〉のような現在進行形の対象を研究者が論じることには大きな危険が待ち受けています。・・・・・・研究の場合、対象と距離を取る必要がありますが、その対象にどんどん惹かれ、巻き込まれてしまうこともあります。・・・・・・逆にあまりに距離を取りすぎ、「外」から、あるいは、「上」からの議論をするだけなら、〈アイドル〉のように、本質的にとらえがたい対象を・・・・・・取り上げる必要もない (西 2017: 87)

と語る。このような困難を理解した上で、同じ女性という枠組みには存在するものの、アイドルファンではないからこそできる分析が行えたらと考えている。

さて、アイドルは既にさまざまな見地から論じられている。日本文化特有の、未熟さへの愛情という文脈でアイドルが捉えられていることさえある。文化人類学者のカキン・オクサナは、欧米では「才能・能力・言動」が若い歌手の魅力であるのに対し、日本のアイドルファンは「アイドルの『未熟さ』を愛で」(カキン 2017: 69)ており、「アイドルの育成に自発的かつ積極的に参加し、『未熟さ』を愛でる対象として、母親目線で愛でる。のちにアイドルが『成熟』してしまったら、ファンはそのアイドルの応援をやめ、より『未熟な』若手アイドルの応援に乗り換え、育成の過程をまた一から繰り返すのである」(カキン 2019: 72)と分析している。しかし、筆者はアイドルの未熟性ばかりが注目されるこの見解に疑問を呈したい。たしかに江戸時代から美しい少年への志向や、未熟なものが育っていく様子を見守る娯楽が存在し、楽しまれていたことは事実だ。しかしアイドルの魅力の本質は本当にそこにあるのだろうか?
実際にアイドルを応援している人々に話を聴くと、〈推し〉のストイックな仕事観といったプロフェッショナルな部分、メンバー同士の関係性、ダンススキルなど、推す理由は多様で、応援方法に関しても、自宅で楽しめるコンテンツを好む人、イラストや文章を発信する人、オタクコミュニティを楽しむ人などさまざまだ。筆者は応援している女性の観察からアイドルを捉えなおすことによって、アイドルの魅力・定義を再構築したいと考えている。

まず、現代社会を生きる女性たちはどのような環境におかれ、何に苦しめられているのか、ということに焦点を当てる。そして、そこからどのような救いを求めてアイドルを応援しているのかを考える。筆者は、〈生きづらさ〉とは、あらゆるものとの付き合い方、つまり〈関係性〉に起因するのではないかと考えている。
そのため
2章では、相手との関係性における生きづらさ、
3章では否応なしに置かれる社会との関係性における生きづらさ、
4章では帰属するコミュニティとの関係性における生きづらさ、
と大まかに3つの視点で女性とアイドルについて論じていく。こうしてアイドルを応援する動機について、筆者なりの定義をしたいと考えている。それがアイドルの魅力や定義、アイドルオタクとはなんなのかという問いの答えになるだろう。

 

ここまで読んでくださりありがとうございます!

ぜひ続きも読んでいただけたらうれしいです!