ほめられたことをもう一度できない

アイドルとアイドルオタクについて

結局、アイドルとオタクの関係って

今回は卒論の中でも特に力を入れて書いた「まなざし」パートです。前回同様、読むのだるいな~というところは読み飛ばしてもらって構いませんが、前回よりは読みやすいと思われます!

3. 否応なしに置かれる社会との関係性における生きづらさ

 

3-1.  『望むとおりに理解されることの不可能』

 

「仲間であることを確認(承認)しあうゲーム」の生きづらさは、個々人の関係性においてだけでなく、「社会的な承認」についても同じことが言える。教育心理学者の梶田叡一は、社会的承認をこのように説明している。

社会に生きている以上,形は変わっても,社会からの期待に合うよう自分自身をコントロールする,という責務を何とか果たしていかなくてはならない。外から与えられた制服やマニュアルを拒否するとするなら,自分自身で新たに自分なりの服装と行動原則を作り出し,それを自分なりの自己提示の仕方として周囲に認めさせていくしかない。これがしんどいということになると,結局は自己提示の在り方を考えること自体から逃避し,引き籠りになるしか道がないということになる。(梶田 2016:4)

社会的に承認されるためには、「社会からの期待」に合わせて「自分自身をコントロール」する必要がある。 社会的承認を得られず、逸脱した存在となった女性を描いた作品に、『脂肪と言う名の服を着て』(安野モヨコ 2002)と『コンビニ人間』(村田沙耶香 2018)がある。

文学・少女漫画研究家の富山由紀子は安野モヨコの作品を、「『女の労働』には『男の視線』が介在していること、労働環境や労働意欲の違いを超えてあらゆる『女の労働』が『男の視線』とかかわりを持つものとして位置づけられている」(富山 2012: 8)という特徴があると語る。「男の視線」を内面化することを拒否し、「誰とも何処ともつながらず自分の殻に閉じこも」り、「他者との紐帯を一切遮断した純粋培養的な自己イメージを職場に持ち込もう」(富山 2012: 12)とした のこ は、当たり前のように社会から排除された。

また、『コンビニ人間』の主人公である古倉恵子は、コンビニの中でのみ女でも男でもない「コンビニ人間」として「世界の正常な部品」になれる。日本文学研究者の飯田祐子は、

この作品では、セクシュアリティは消されている。もともと『性経験はないものの、自分のセクシャリティを特に意識したこともない』、『性に無頓着なだけで、特に悩んだことはなかった』古倉にとって、『交尾』とも形容される『性交』をするのは『不気味で気が進まなかった』という具合に、性的指向や欲望のオルタナティブを探る契機もないままに丸ごとセクシュアリティは退けられている。(飯田 2019: 53)

と分析する。この状態で許されるのがコンビニなのである。男であることも女であることも期待されない場所。それは働いている女性が一度は夢見るような場所ではないだろうか。しかしひとたびこの外に出てしまえば、36歳で就職経験も恋愛経験もない、社会の暗黙のルールが理解できない気味悪がられる存在になってしまう。だからこそ古倉恵子はコンビニ店員である自分というアイデンティティをなによりも大事にし、「細胞全部がコンビニのために存在している」(村田 2018:149-50)とまで断言するのである。

社会からの役割期待に沿うことを放棄した彼女の「正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく」(村田 2016:77)という言葉は、私たちが生きる現代社会の歪さを冷静にあらわしている。

女のコミュニティの中で息が出来ず、殻に閉じこもることを選んだ前者の主人公 のこ が最終的にコンビニのバイトを選んだことは、かなり示唆的な描写なのではないだろうか。

この二つの作品に共通するのは、男の視線を内面化し、社会の役割期待に沿った女になることでしか女性は社会的承認を得られないという認識である。女を捨てた(性別そのものの概念から脱出した)女性を待っているのは、社会におけるコミュニティからの脱落であり、梶田の言うように「引き篭り」か、あるいは「周囲との間に多大な軋轢を経験することになる」かを強いられることになるだろう。

ただ、〈異性として意識できない女〉という、ある意味〈女を捨てた〉とされる女性は別の役割期待を押し付けられるという意見もある。それは「おばちゃん」である。2020年10月、篠原信というライターのあるツイートが話題になり、多くの女性の意見が寄せられるムーブメントがあった。

篠原によると、独身の中年男性は社会から虐げられているが、問題にもされない。彼らを孤独から救いコミュニティへの架け橋となってくれるのが「おばちゃん」であり、「おばちゃん」の減少と中年男性の凶悪事件の増加、それによる独り身男性への厳しい視線には因果関係があるとした。そのため「中年以上の女性で、我こそはと思わん方は、ぜひ『おばちゃん』になってあげてほしい」(篠原 2020)と篠原は述べる。

篠原のツイートが話題になったのは、〈女のモノ化〉や「『男性は女性にケアされ、女性は他人をケアするもの』という固定観念」(川上 2020)が浮き彫りになったからである。もちろん中年男性の生きづらさはあるだろうが、セーフティネットの役割は女性だけが果たすべきものではない。こう考えていくと、女性は死ぬまで社会からの望まぬ役割期待を背負わされて生きていかなければいけないのかとすら思えてくる。

地方から「金の卵」として集団就職し、のちに射殺事件を起こしてしまう青年、N.Nについて分析している社会学者の見田宗介は、N.Nを苦しめた「まなざし」とは、「具象的な表相性(服装、容姿、持ち物)にしろ」「抽象的な表相性(出生、学歴、肩書き)にしろ」「ある表相性において、ひとりの人間の総体を規定し、予科するまなざし」(見田 2018: 40)だと述べる。そんなまなざしの囚人となったN.Nは、自分は獄中でやっと解放されたと語り、フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』を読んで、「『望むとおりに理解されることの不可能』ということば」(見田 2018: 60)を書き写し、傍線まで引いていたという。見田のいう「まなざしの地獄」は、梶田の「社会からの期待」と近いものがあるのではないだろうか。

女性は自分の望まないかたちでまなざされ、消費されている側面がある。ミニスカートを履けば異性の気を引くためと言われ、後の章で詳しく触れるが、女性は女性のままで〈コンテンツの正当な消費者〉になれなかった。何かを好きでいる自分を、そのまま認めてもらうことができなかったのである。

 

3-2.  アイドルが可能にする<まなざしからの解放>


3-1で述べたような、期待を込めた視線でまなざされる女性の苦しみは容易に想像できる。アイドルファンの女性たちは、役割期待からの一時的な逃避〉という生存戦略として、アイドルを応援しているのではないだろうか。

宝塚歌劇団を研究する社会学者の東園子は、「美化された異性愛が描かれる舞台を好む『宝塚』ファンは、いつまでも王子様との恋物語を夢見る女性だと思われがちだ。だが、彼女たちが『宝塚』に見出しているのは、実は女同士のホモソーシャル(恋愛、または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性)な絆かもしれないのである」と述べる。

女子校は同性だけの空間であるので、その内部では基本的に異性愛が発生しない。同世代の異性から隔離された女子校の生徒は、一般的に女性に課せられている異性愛の義務を免除され、女同士の絆を最重視することが許された存在だと言えよう(東 2007:222)。

ここで述べられている宝塚の世界では、男の視線が存在しない。つまりまなざされる恐怖から自由になれる世界である。男性アイドルは宝塚とは異なり異性であるが、ファンが一方的にまなざす関係である為に、内面化すべき役割期待を含んだ視線が存在しないといえる。

また、自らをレズビアンだと紹介するアイドルファンは、「レズなのにジャニーズが好きなの?」というタイトルのブログ内で、

「そういう風〔前述「推しと仕事がしたい、推しのシンメ(シンメトリーの略。この文脈では「相棒」のような絶対的な関係性のことを指す)になりたい、もはや推し自身になりたい。」〕に推しをみているとき、わたしはじぶんが『女』であることを忘れている。」「ケンティージャニーズ事務所所属タレントの中島健人〕は、わたしに何の見返りも求めない。『女』であることも、『女らしく』あることも、もっと言ってしまえば『男を好きである』ことも。」「『女』としての感情的、あるいは肉体的な奉仕を一切求めずに、ただただ好きでいることを許してくれる」と語っている。(なめこ 2018)

まさに、アイドルである「ケンティー」は、あらゆる期待役割からファンを解放する存在である。 

このように、ファンがある意味一方的にアイドルをまなざす関係が保たれているからこそ、日頃望まない役割期待を内面化しながら生活している女性たちにとって、アイドルは一種の逃避先としての役割を果たしているのではないだろうか。

 

3-3. アイドルが可能にする<まなざしへの積極的な参加>

そしてコインの裏表のように、アイドルを応援するということは、まなざされることからの逃避と共に、女性自身が積極的にまなざしているという側面がある。

女性による「萌え」について、社会学者の吉光正絵、西原は、「『妄想する』という脳内世界に根差す言説はもちろん、『目撃する』『要観察』『萌え目線を送ってしま』うなど、まなざしにまつわる言説が多用されている。女性オタクによる〈萌え〉語りには、主体的・積極的に対象をまなざし、そこにかわいさを発見しようとする振る舞いを読みとることができる」(吉光・池田・西原 2017:37)と述べた。

そしてBL漫画家の中村明日美子が自身の〈萌え〉対象として「非おしゃれ眼鏡男子」を挙げた語りに触れ、以下のように述べた。

観察者である中村が見出す〈萌え〉。ここで、観察の対象となる男性は「無自覚で無意識で無防備で」ある必要がある。観察される側は、自分自身の姿を「魅力」的だとはみなしていない。その姿を一方的に見つめて「魅力」と感じる、つまり、本来はそこが魅力とはみなされないはずのものを魅力的なものとして位置づけることで、観察者自身が〈萌え〉る“物語”を生み出す主体となる。まなざしのベクトルは基本的に一方通行だ。〈萌え〉の対象によるなんらかの反応は求められていないし、〈萌え〉の対象から逆にまなざし返されることも想定されていない。だからこそ、自由な想像力で自らの〈萌え〉を存分に味わうことができるのである。(吉光・西原2017:39)

吉光と西原が指摘したように、今までまなざされる苦しみを味わってきた女性たちは、箱男のように自分がまなざし返されることのない安寧の地で、一方的にまなざす主体となることが出来るのである。

哲学者の千葉雅也が指摘するように、「もともと見た目で判断されていたのは女性であり、男性は見た目とは関係なく実質で判断されるものだ、というのが従来の非対称性」であったが、「男性アイドルの存在が大きくなることで、男性もまたルッキズムに晒されるということが起きた」(千葉 2019: 19-20)。つまり、男性アイドルの存在は、女性がまなざす主体となることを可能にする存在といえる。

また、女性が主体となる喜び、安心感について、いわゆる2.5次元ジャンルのファンを自称する女性は、「私みたいな若いふつ~~~の女がロックとかヘビメタとか好きって言おうものなら、『①彼氏か父親の影響』『②ボーカル及びメンバーの顔ファン』って反応を返される」と、自分の意図する形で応援できないもどかしさを語る。

そして、アイドルを応援する理由について、「若い女性がなぜK-POPにはまるのか、なぜジャニーズに、なぜメン地下に、なぜ若手俳優に、なぜ2.5次元に。そこにはもちろん個々人の価値観や感性もあるだろうけど」「『コンテンツの正当な消費者になれるから』があるんじゃないかと思う。」(BUN太 2019)と述べる。

彼女の記述でもうひとつ興味深いのは、女性が「正当な消費者」になるために男性に近づこうとしていたのではないかという考察だ。

女子中学生がなぜか女キャラに対して「おっぱい」「エロい」「hshs」とか言い出す現象って、私も経験したんだけど、あれは女でなく男オタクに近づこうとする心理があったんじゃないかと当時を振り返れば思う。男キャラをかっこいいとか可愛いって言っただけで腐女子って言われたし、ジャンプ等の少年漫画に腐女子がついたらジャンルは終わりって言われた。(BUN太 2019)

つまり、女性は女性のままでは「正当な消費者」になれなかった。まなざされるのは女性、まなざすのは男性、という力関係は絶対的だと考えられていた。そんな環境に置かれる女性たちにとって、アイドルは自分以外の何者かに擬態することなく「正当な消費者」になることを許してくれる存在だといえる。

しかし、元々まなざされていた女性たちが主体となってまなざすことの難しさについて、吉光と西原はこう語る。

女性たちによる〈萌え〉語りは、一見すると楽しく無邪気なように思われる。しかし実際には、その語りの表明には多くの不自由が伴う。そもそも現実では、異性からであれ同性からであれ、女性が他者のまなざしの対象となり、そのまなざしを内面化することで他者から違和感を持たれないように振る舞うことの方が頻繁に起きるからだ。(吉光・西原2017:40)

日頃まなざされる側に置かれているからこそ、女性は<まなざしの暴力性>を自覚しているのではないだろうか。千葉はあえて強い表現で「ジャニーズは、男をまなざしの地獄に巻き込んだ」(千葉 2019: 20)とも述べる。

だからこそ、アイドルはあえてまなざしやすいように準備をしていると考える。

アイドル的人気を得る若手俳優について、元俳優でYoutuberの阿久津愼太郎は、アメリカ文学研究者の足立伊織との対談で次のように語る。

「(吉沢亮(俳優)は自身が『イケメン』であることに対して自覚的であることに対し)自分が見られる存在であるという意識が強いので、こちらもまなざしていいんだという精神的な安定感がある」。(阿久津・足立 2019: 80)

また、ジャニーズ事務所でジャニーズJrとして活動した後、事務所からユニットごと独立した7ORDER projectのリーダーである安井謙太郎は、自分たちをアイドルと思うか?という質問に対し、「(応援している方たちにとっては)アイドルと言ってもらったほうが見やすいのかな」と答え、自身がアイドルと捉えられることに関して、「それは(ファンが)どういうふうにその人を見ているか、応援しているかというところだから」「僕は自分の心に寄り添ってくれるのがアイドルなのかなと思いますけど、どのように見てもらってもいい。でもそれも自分たちでわざわざ言うようなことでもない時代なのかなと」(7ORDER project 2019: 13)と、語る。

また同グループに所属する森田美勇人は、ファンの目線に立ち、「アイドルと言われたときの、はっきりしていない感じにも興味をそそられるかもしれない。深堀りしたときにおもしろい性格の人を見つけたとか、アイドルっていろいろ掘り下げたくなる存在なのかなと思います」(7ORDER project 2019: 12)と語った。

このような〈どのようにまなざされてもいい〉といったアイドルの態度について、歌手の大木貢祐は「アイドル性には意図的でもそうでなくても、ある程度の空っぽさが肝要なのだ。隙間にたくさん書き込んでもらうこと、そしてそれを気にしながら活動し、ファンの自由な物語の創造を邪魔しないことが、現代のアイドル性ではないだろうか」(大木 2019: 263)と分析する。

その余白の大小に差はあれど、相手がまなざしに対し自覚的な部分を持っているからこそ、女性たちは安心して「正当な消費の主体」となることができるのだと考える。

 

3-4.  アイドルの持つ<物語>が果たす役割


さらにアイドルは「見られる存在であるという意識」にとどまらず、まなざされるための物語を用意している。この物語という存在は、まなざされる側の身を守る盾になるだけでなく、まなざす側の心理的負担を軽減するものでもあるといえる。この枠内であれば好きなように消費してもよいという免罪符の存在は大きい。

日本現代文学研究者の岩川ありさは、ジャニーズ事務所所属のタレントのKing&Princeというグループがライブでファンに語りかける言葉に注目する。

同グループの永瀬廉の言葉である、「ここ大阪城ホールはですね、ジャニーズとしての僕が生まれた場所です。やっぱりこうやって改めてデビューしてここに立てたというのはほんまにうれしいことですし・・・・・・また僕ら六人、大きくなってここに戻ってきたいと思います」を引用し、「(永瀬は)『生まれた場所』という言葉を用いることによって、アイドルとしての誕生の物語を語る。永瀬が語るのは、アイドルとして生き、原点へと戻ってきた回帰の物語でもある」(岩川 2019: 126)と述べた。

また、アイドルは「出会いの物語」を多く語ると分析し、特にジャニーズのタレントは「オーディションのときやJr.に入ったときにはじめて話した相手のエピソードを繰り返しする」(岩川 2019: 126)という。これらのアイドルの行為は、2章で話した「純粋な関係」を投影しやすい物語、世界観をファンに提供しているといえる。

また、岩川は「アイドルである彼らがKing&Princeであるためには、ファンによって『彼らの物語』が分かち持たれなければならない」(岩川 2019: 127)とも述べる。応援する女性たちがアイドルの提供する世界観の中でまなざす主体となることで、アイドルはアイドルとして存在し得るという側面もある。そう考えるとKing&Princeの1stシングルである「シンデレラガール」の歌詞、「I wanna always be your King&Prince」はまさにそのようなアイドルの姿勢を表した言葉である。

また、若い女性から多くの人気を集め話題となった「HIGH&LOW」に付随する、いわゆる「EXILE系」の変遷も興味深いものがある。

ライターの西森路代は、「EXILE系」は「地元のマイルドヤンキー」と結びつけて考えられていたが、ある時期から、三代目J SOUL BROTHERSのメンバーが少女漫画のヒロインの相手役を演じるなど「戦略的に女性に訴求する」(西森 2019: 210)動きが増えていったと語る。これはまさに千葉が分析する「男の硬直性を男でありながら脱構築する」という「ジャニーズ的な華やかさ」(千葉 2019: 21)に近づいていった動きではないか。

その流れの先にあったのが、2015年10月にスタートしたテレビドラマ、『HIGH&LOW ~THE STORY OF S.W.O.R.D.~』である。この作品はシリーズ化され、メディアミックスしながら今でも続いているが、その大きな特徴は「(演じているLDH所属のタレント)本人のキャラクターの魅力を物語によって何倍にもして拡散」(西森 2019: 212)したことである。西森はこの『HIGH&LOW』を「メンバーひとりひとりが、どんな顔を持っているのか、その人となりを知ることのできるツール」と説明する。このツールは、先ほど触れた〈アイドルの物語〉と共通した側面を持つと考える。西森は、「LDHの面々は、一枚キャラクターをまとうことで、アイドル性により近づいた」(西森 2019: 213)とし、そのキャラクターについてこのように語る。

キャラクターを知ってもらうということは、アイドルにとってもっとも重要なことの一つである。またキャラクターを通じて人を観察することで」(=「本人が演じた本人に近いキャラクターのことを消費もしくは考察する」ことで)「アイドル本人の心理的ストレスも少なくなる」と考えられ、「本人をどこまで消費していいものかという躊躇」からくるファンのストレスも少なくなる(西森 2019: 213)

これはまさに、〈アイドルの物語〉である。「それまで、アイドルというのは歌とダンスで見せ、そしてバラエティで素を出すということで、本人のキャラクターを知ってもらう」(西森 2019: 212)という形を取り、その「無節操さは、かつては男はひとつの道を追求するものだ」「という保守性を脱構築するものだった」(千葉 2019: 21)が、LDHのタレントは、新たな物語の提示方法を発見したのである。

さらにLDHの代表であるHIROは「以前より『物語』『ストーリー』の重要さについて語って」(西森 2019: 213)いたということからも、戦略的に〈安心して〉まなざすことのできる仕組みを作ったと考えられる。

また先ほど、応援する女性たちがアイドルの提供する世界観の中でまなざす主体となることで、アイドルはアイドルとして存在し得ると述べたが、その意味でアイドル自身は社会から逸脱した存在だと言うこともできる。

心理占星術研究家の鏡リュウジは、男性アイドルに「永遠の少年」像を重ね合わせている。一歩その物語から出れば、「男のくせに歌って踊るなんて!」「大した芸もないくせに、顔と事務所の力だけで!」(鏡 2019: 27)と成人男性からは否定的な声も上がるような存在である男性アイドルが、「絶対の自信。その純粋さ」を維持するためには「あくまでもイデアの世界、あるいは集合的無意識の世界でしか実在できない」(鏡 2019: 26)と考察する。

2020年現在、男性アイドルにそこまでの偏見を持つものは少ないとは思うが、地下アイドルやアイドル的な人気を集める2.5次元俳優、小中学生からアイドル活動をしている少年たちに対してはどうだろうか?「制度化とシステム化、社会化は、本質的に『永遠の少年』元型の敵である」(鏡 2019: 28)と鏡は述べる。彼らは社会化から〈物語〉という枠組みによって隔離された、つまり逸脱した存在だということだ。そして、物語とは私たちが生きる社会から隔てたところにあるからこそ意味がある。

足立は日本の男性アイドルの持つ異様に装飾過多な衣装や不統一性について触れ、「いまはネットがそういうノリを全面化させて、マンガのひとコマを切り抜いてきておもしろがるような場所になっている。逆にそこから逃れて、アイロニカルではなく本気で熱くなれる場所として、アイドル現場にきている人も少なくないのかもしれない」(阿久津・足立 2019: 86)と語る。外部規範が通用しない物語世界の中だからこそ、より世界観に没頭・没入することが出来る。たしかにそれはアイドルファンならではの体験かもしれない。

オタクを研究するライターの大泉実成は、オタクを「パロディの人」「オマージュの人」の2種類に分類する。そして「オマージュの人」をあらゆるオタクの原型だとしてこう語る。「心を許せない、大きくて理不尽な世間というもの。Uさんの怒りはその世界にいつも囲繞されているという意識から来るのかもしれなかった。そしてその怒りが、彼を自分の愛する作品へとより深くもぐりこませているように僕には見えた」。そして、「彼の怒りの対象は、単なる世間というよりは、自分の身体も含めた、理不尽な世界そのものになるのかもしれなかった」。つまり、「世界と自分のズレを調節するために怒りが発動し、その怒りは同時に彼が親密にしている作品世界への沈潜をうながす。そして作品世界に対する強い愛情が、さらに世界に対する怒りを強めさせる。この絶えざる循環が、『オマージュの人』の過剰な妄想力を引き出している」(大泉 2017: 74)。

ここでいう「世界と自分のズレ」とはまさに「望む通りに理解されることの不可能」から来るものではなかろうか。

また、自分と世界へ向けられる感情は怒りだけでなく、諦念に似たものもあるだろう。アイドルを応援する女性を描いた『くたばれ地下アイドル』という小説に「自分の人生だけで十分面白かった時間ってのが、終わっちゃったんだよね」「アイドルは・・・無責任に他人の人生を面白がれる」(小林早代子 2018: 80-81)という台詞がある。このような発言をした登場人物は、先の見えない自分の将来を思うよりも、これから伸びしろのあるアイドルへ投資したり、消費するほうが楽しいという。

西は、「新たな状況と向き合う、『とにかく前向きな姿勢』や『未来志向』が〈アイドル〉を特徴づけるものであり、そして、それゆえにこそ、〈アイドル〉がいまや文化として確立されることになったのではないか」(西 2017: 11)と語る。「世界と自分のズレ」に向き合うことを諦め、輝かしい未来に意欲的なアイドルを応援することで物語世界へ沈潜していくパターンも考えられる。

どちらにせよ共通しているのは、日頃自分に向けられる役割期待を強く意識し、しかしその期待に応えられない、または応えたくない人々こそ、社会から隔たったアイドルの物語世界に惹かれ、深く入り込むのではないか、ということだ。大泉の言う「『オマージュの人』の過剰な妄想力」とはアイドルの物語をつくる力だ。物語を愛し、物語に沈潜する人々がさらに物語を拡大していき、アイドルはその物語によって存在することができる。アイドルとアイドルを応援する人々には、そのような関係性がある。

しかし、この物語もメリットばかりではない。見田はN・Nが青森時代、飲食店と実家を隔てるベニヤ板に穴を空け覗いていた話から、

覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの『逃避』であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。それはなるほど、『支配の安全弁』であるかもしれないけれども、同時にそれは、みじめな現実を生きるわれわれの心の中に、おしとどめようもなくある否定のエネルギーを蓄積してしまう(見田2017: 14)

と分析する。誤解を恐れずに言えば、N.Nがベニヤ板の穴から覗く様子はその一方性や自分を不可視化するという点で、ファンが物語の中でアイドルをまなざす様子に似ている。

アイドルを応援している人々に話を聞いていると、アイドルの応援を辞める理由に2つの傾向があることが分かる。1つ目は後述するが、2つ目はこのベニヤ板の構造に耐えられなくなった場合である。物語内でのみ許されるアイドルとの関係性に劣等感を抱いたり、社会の中での望まない自分の姿を、アイドルを応援する中でよりはっきりと自覚してしまったとき、「否定のエネルギー」が蓄積されてしまう。彼・彼女たちはアイドルを応援することをやめ、そうでなければアイドルを傷つける行動に出てしまう。

社会学者の稲増龍夫は、アイドルは虚構だからこそ美しいと述べ、「虚構が現実にして機能するためには、人々自身にとっては仕組みが隠蔽される必要がある」(稲増 1993: 26)という。物語は、このベニヤ板の構造を隠すためにあるともいえるが、完全ではないのだ。

例えば虚構の仕組みがあらわになる瞬間の一つに、アイドルのスキャンダルがある。ライターの山野萌絵は、これについて、

(アイドルがカノバレ(=彼女の存在が明るみになる)してオタクがショックを受けるという現象について)自我が分裂し「彼女がいることにショックを受けている自分」と、「冷静に考えてみれば彼女がいてもおかしくないと解っている自分」が並列に存在してしまうために、感情同士が摩擦を起こし、軋轢によって「なんかよく解らない憎しみ」が生まれてしまう(山野 2019: 171)

と分析する。そこには「『友人』とか『仕事仲間』とか、名前のついている人間関係だけで生きている人たちからすれば、『他人』の関係性の中で藻掻いているオタクの行動は滑稽で、どこかおかしい」(山野 2019: 172)かもしれないけれど、それでも「他人だとしても、どうにかして何かになりたい」(山野 2019: 171)という女性の複雑な感情があるという。

ミュージシャンの近田春夫は、積極的にアイドルの虚構を虚構として楽しみながら、その虚構の「出来の良さ」を論評していく応援スタイルもあると述べている(稲増 1993)。それはベニヤ板の構造をあえて楽しむことで、否定のエネルギーを発散させる一種の方法かもしれない。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

ご意見、ご感想お待ちしております。

次回の4章ではオタク間コミュニティ、永遠の問題である「新規v.s古株」について社会学的に考えてみます。